バレンタインの金曜日 キリシタンの世紀になぜ殉教が起こったのか?
殉教というとキリスト教に限りません。キリスト教の殉教はステパノから始まり、使徒ペテロやパウロが続きました。日本では二十六聖人の殉教や元和の大殉教が知られています。日本でも教えに従い命をかける行為が史料に残っています。南の海に船出する渡海船です。有名なものは和歌山県那智勝浦町の補陀洛山寺の渡海です。「熊野年代記」によると868年から1722年の間に20回行われました。補陀落渡海についてイエズス会宣教師で「日本史」を書いたルイスフロイスもローマに報告しています。
渡海船は那智曼荼羅にも描かれており、現在でも渡海船を再現した物が補陀洛山寺境内に展示してあります。船の中央に箱が設置してあり、四方は鳥居で囲まれています。ここの住職が還暦を迎えるとこの渡海船に乗って三十日分の食料と水を入れた箱の中に入ります。人々は漂流していく船を見送ります。
南方の海にはサンスクリット語のポータラカがあると言われています。観音様が住むという浄土です。日本書紀でも少彦名命が熊野にたどり着いて、常世に往ったとありますから、熊野は神話の時代から黄泉と現世の境目だったのでしょう。熊野灘から少し沖合に出れば黒潮が流れており、岸に漂着することはほとんどありません。しかも、まれに親潮に押し流されて循環流で元に帰ってくることがあります。もし、渡海船に人がいなければその人は観音浄土に行き着いたと考えられたのでしょう。
補陀洛山寺の渡海僧に葛藤はなかったのでしょうか。これをテーマにしたのが井上靖の補陀落渡海記です。金光坊のように渡海したくない人もいたでしょう。中には渡海船を蹴破って密かに島に上陸した僧もいました。これを送った人たちは僧を殺して渡海船に閉じ込め再び渡海させたという記録があります。江戸時代になると住職が亡くなった後、亡骸を渡海船に載せて沖に出す水葬に変わっていきます。
補陀落渡海が圧倒的に多いのが中世です。戦乱の時代にあって人々は観音浄土を希求しました。この世が苦しければ苦しいほど浄土への憧憬は強くなったことでしょう。人々の生きづらさが浄土信仰を寄り強いものにしていったのでしょう。
ザビエル来航以来の百年間をキリシタンの世紀と呼ぶこともあります。前半は殉教の嵐でした。しかし、彼らの多くは潜伏し、生き抜くことを選びました。とことん真実を貫けば教えに従って殉教するしかないでしょう。潜伏キリシタンはもはやキリスト教ではないと後世の者が批判するのは簡単なことです。注目すべきは、彼らが一番大切な教えを外面的には捨てて生きることを選び、内面では神に許しを請い教えを禁教令が解けるまで信仰を貫いたことです。そして、それが現在にまで息づいている。これは奇跡と言うしかありません。生きづらい生きにくいこの世界にあって、真実を捨てでも密かに生き抜いていく。それは現代の殉教者なのでしょう。内心の自由まで誰もが侵すことはできません。
昭和の時代に中学生が渡海して世の中を驚かしました。南の海に接している港町の少年です。ある男の子は南にある島を描いています。日本人には南の海に浄土のような理想郷があるという共通の遺伝子が組み込まれているのでしょうか。生きづらさ、生きにくさが彼らを南の海に誘ったのかも知れません。
バレンタインの金曜日、私たちは生きづらい生きにくい世界をどう生き抜くか。殉教とは最後まで命をかけて教えに従うことで、決して教えに死ぬことだけではありません。命をかけることは死ぬことではなく生き抜くことです。長崎の潜伏キリシタンの世界遺産は教会や遺跡だけでなく潜伏キリシタンの信仰そのものが大いなる遺産なのでしょう。それは、生きづらい生きにくい世界を生き抜いた世界でもまれに見る神の奇跡そのものです。