バレンタインディーに寄せて 木曜日 | バイカルアザラシのnicoチャンネル

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 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

レンタインの木曜日 生きにくい社会を生き抜く

 2018年、ユネスコは長崎県の市と町を「
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録しました。潜伏キリシタンとはザビエルがキリスト教を日本に伝えて以来禁教令によって隠れて信仰を守った人々です。
 秀吉は南蛮貿易をするためにキリスト教については寛大でした。その政策の元で西日本ではキリシタン大名になる領主も現れ、急速に信徒が広まっていきました。しかし、信長はキリシタンが一向宗のような一揆を起こすことを怖れ、1587年に「
伴天連追放令」を出します。
 その十年後、宣教師や信者たち26人が捕えられ、処刑されました。その後、サンフェリッペ号事件が起こり、乗組員が「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信者を増やし、やがてその国を支配する」と供述したことで秀吉がバテレン追放令を出し、禁教の時代へと向かいます。乗組員の供述の真偽は定かではありませんが、ラテンアメリカでヨーロッパ人がやったことは結果としてその通りのことです。

  長崎を旅行したとき、「
日本二十六聖人記念館」と聖フィリッポ教会を訪れたことがあります。夜行列車で長崎駅に着いて、朝一で処刑地の丘に行きました。朝日が昇っています。26聖人のレリーフが建っていました。殉教者の何人かが涙を流しています。たぶん朝露がたまたま目の部分に溜まったのでしょうが、それを見たときは驚きでした。慈愛に満ちた眼差しでした。全員が天を仰いでいるのです。涙は衣を伝って足の下まで続いています。キリシタンの見せしめとして彼らは死を恐れることなく処刑されました。中には信徒ではなかった人物もいたようです。
 その後、長崎では岡本大八事件というキリシタンによる巨額収賄事件が起こり、キリシタンに対する信頼を揺るがす事件が起こりました。また、島原の乱は天下布武を掲げる戦国大名にとってキリシタンは放置できない存在へと変わっていきます。江戸時代になると踏み絵を踏ませすべての民を仏教徒檀家とする
寺請制度が始まりました。そして、キリシタン達は外面は踏み絵を踏み、内面では信仰を守り続けました。明治になると大浦天主堂で潜伏キリシタン達が発見されます。


 今日はバレンタイン週間の水曜日です。紀元269年に殉教したというバレンチヌス。彼もまた生きにくい社会を生きていました。潜伏キリシタン達も生きにくい社会を生きていました。自分が棄教しないと他の人も殺される。そんな選択を迫られるとき、自分だけなら殉教できても、他の人まで巻き込んでしまう。それは葛藤の極みでしょう。


 先日紹介したマシュー・アーノルドもそうでした。大英帝国全盛時代を生きていた彼もまたキリスト教徒でありながら誠実でありたいと考えていた人でした。勤勉に働いて富を得る。そのためには手段を選ばない。プロテスタンティズムの倫理はキリストの教えとは乖離していた時代です。彼が詠ったドーバーの岸辺の一節、「Ah, love, let us be true おお、愛する人よ、誠実であってください」真実でありたい。神の下に真実であらせてくださいと叫んだのです。


 今は殉教のように命の危険はありません。アーノルドのような苦悩は私たちの回りには多くはないでしょう。それでも現代を生きる私たちの身の回りにも生きにくさは多かれ少なかれ存在します。吉野弘さんの「夕焼け」という詩を読んだことがあります。

いつものことだが電車は満員だった。
そして いつものことだが 若者と娘が腰をおろし としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に 横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし 又立って 席を そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。

二度あることは と言う通り 別のとしよりが娘の前に 押し出された。
可哀想に。
娘はうつむいて そして今度は席を立たなかった。
次の駅も 次の駅も 下唇をギュッと噛んで 
身体をこわばらせて---。
僕は電車を降りた。

固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。
何故って やさしい心の持主は 他人のつらさを 自分のつらさのように 感じるから。
やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで つらい気持ちで 美しい夕焼けも見ないで。


 小さな殉教者は今でも私たちの近くにもいらっしゃるかも知れません。アーノルドの真実であることって何だろうと思うことがあります。他人のつらさを自分のつらさのように感じられる。今日の一日でちょっとでも生きにくさを感じたら、それはあなたが優しい方だからなのかも知れません。バレンチヌスが殉教したこの週にそのことを静かに考えてみたいと思います。