昨日からの雨は午後には上がり、晴れてきました。稲荷山公園の桜は何とか散らずに持ちこたえたようです。
櫛田川にはかもが渡ってきて冬を越しました。田植えが終わるとまたどこかへ渡っていきます。今日は風も強くて寒いので陸に上がってひなたぼっこなのでしょう。
東海自然遊歩道の立梅用水の道ばたにはタンポポの群落があります。これを見ると本当に春なんだと思います。
圃場整備した田んぼは周りの自然とはまだしっくりいっていません。まだ工事現場って感じです。それでも田んぼに水が引かれて早苗が植わってきたら、美田になるでしょう。
工事で絶滅していたかと思っていたヘビイチゴは変わりなく咲いています。
その側にはキランソウの群落が広がっています。花の密度が濃いので、一面が明るい青色をしています。
そのまわりにはエンゴサクが咲いています。もう春の花でいっぱい。
昨日は日本列島に前線が通過して大雨でした。低気圧が東方海上に抜けたので冬型に元通り。冷たい北風が吹いています。あんなに咲いていた桜は、花びらが散って至る所に落ちています。
散る桜 残る桜も 散る桜
これは江戸時代の禅僧良寛和尚の辞世の句だと言われています。散っていく桜も、残っている桜も、いつかは散る桜。一生を修行に生きた老僧の一つの悟りの世界を表しています。
お釈迦さんの弟子がキノコのお料理を作りました。それが原因でお釈迦さんは体調を崩して命が危険になりました。お釈迦さんは弟子に言います。命は限りあるもの。もしこの食事を食べなくても私の命は限りがある。それよりもおまえは私に食事を作ってくれて徳を積んだ。
苦しんでいるお釈迦さんを見て弟子はどんな気持ちだったでしょう。そこにお釈迦さんの深い慈しみがあります。
散る桜 残る桜も 散る桜
昨日、4月8日は戦艦大和が日本海軍最後の海上特攻隊として徳之島の南の海に沈んだ日です。乗組員もこの言葉を胸に刻んでいました。3056名の御霊は345mの海に今も眠っている。この言葉はお釈迦さんが弟子にかけた言葉のように慈悲に満ちた言葉なのでしょう。命に限りがあり、いつかそのときはやってくる。そのことを心にとめておくように。人間だけが死を知っているといいます。ほかの動物は今しかありません。死が訪れればもがき苦しみます。それでも人間に愛されたペットは死を予兆して静かに安らかに死を受けれていくものもいます。
自分の死に意味を見いだすのは大変なプロセスなのでしょう。それは仏陀の修行の道のようなものなのかもしれません。そして、人間に平等に死が訪れるように、今を美しく生きる。それは桜の花の美しさに似ています。
風に吹かれてひらひらと散っていく桜の花。今を盛りに咲いている桜も、明日か明後日かいつかは散ります。