伊勢物語の舞台である斎王の都を訪ねる | バイカルアザラシのnicoチャンネル

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 壬申の乱以降、伊勢の地には斎王という制度ができました。この制度は天皇のご名代として伊勢神宮に仕えるという役目です。初代の斎王に選ばれたのは大来皇女で天武天皇の娘です。条件は未婚の皇女で卜定で選ばれます。天皇が崩御するまで斎宮でお仕えすることになります。

 

 ここに来たのは祓川です。地名の通り都から斎王が郡行されてここ祓川で禊ぎをします。川辺の小径には今菜の花が真っ盛りです。都の華やかな生活から見知らぬ所で生活し、神宮に使えるのはどんなご苦労があったのでしょう。

 

 河津桜が満開です。薄紅色の桜と黄色の菜の花のシルエットは美しいです。斎王様がご覧になられたらどれだけ心も和まれるでしょう。

 

 一面の菜の花です。もういちめんのなのはなです。モンシロチョウが飛んでいます。祓川では白鷺が小魚をねらっています。

 

 今の祓川はお世辞にも清流とは言えません。今は櫛田川河口堰から分流されているので水質は今ひとつです。それでも川底が見えてるのでまあいいかといったところ。

 

 河畔には高圧電線が通って空を威圧しています。カメラに収めればそうなりに構造物としての美しさはあります。

 

 お昼時になったので味仙という中華屋に入りました。ランチセットを楽しみました。ご飯物と麺類を組み合わせて780円です。どちらも一人前なので二人で分けました。あまりにもせこいので、一応餃子を二人前注文しました。お腹いっぱいになりました。

 

 天津飯豚骨台湾ラーメンの組み合わせにしました。二皿で780円って儲かりまっかのお店です。お味は文句のつけようのない美味しさです。どちらも一人前とはなんと太っ腹の店主。

 

 午後とは斎宮歴史体験館に行きました。葱花輦がおいてあります。天皇と皇后と斎王しか乗ることはできません。それが、今ではだれでも乗って記念撮影ができます。いいのかと思いました。斎王の琵琶や貝合が展示してあり、都を離れても華やかな宮廷生活がここで送られました。和歌を詠んだりのその優雅な暮らしぶりは平安時代の文学「伊勢物語」に登場します。斎宮は国史遺跡で発掘は半分ほどが進んでいます。公園には斎王級のジオラマがあり、宮廷で蹴鞠をする姿が見られました。お仕えする官吏は数百人も従え、その生活ぶりは優雅なものではありましたが、都にいれば皇女としての生活ができます。しかも神宮に使えるという大役があり、潔斎や祈りの生活は大変なご苦労がありました。

 

 天皇という存在は日本国家の礎であり、祭祀を行うことにあります。今でも五穀豊穣や国家安泰を祈る姿勢は古代と何ら変わることがありません。斎王制度は鎌倉時代の承久の乱後途絶えて復活することはありませんでした。今なら愛子様のような未婚の皇女がここでお仕えしているということなので、これは大変な制度でした。

 

 斎王宮があったのは明和町斎宮で国史遺跡になっています。国史遺跡といえば、多賀城吉野ヶ里遺跡の3カ所があります。ここには斎宮歴史博物館があり、斎王の祈りの姿を展示しています。周辺に発掘した遺跡があり、復元された建築物もあります。斎王が決定をする野々宮は今は竹神社として残っています。この周辺は平安時代の法律である「延喜式」には「竹の国」と呼ばれていて多気郡として残っています。実際に竹藪や竹山が多く存在し、春の山菜として高級料理店で使われます。品質は絶品です。

 

 平安時代末から鎌倉時代に生きた藤原定家がこの祓川を通り抜けたとき詠んだ一首があります。

 

 のちに又 たれか来て見む 竹河や 結ぶ滴も 紅葉散る山

 

 後にまた、誰かが来て見るであろう。竹の国を流れる祓川に結ぶ露の滴も、紅葉が散っていく山々も。祓川から西方を見ると左から局ヶ岳、白猪山、堀坂山と伊勢三山を見渡すことができます。もちろ伊勢の宮川からも見えるのですが、祓川から見える伊勢三山は伊勢よりも近くて迫力があります。露というミクロの世界から、紅葉散る山々とマクロの世界に一気に読者を引き連れていくのは定家流の短歌の手法なのでしょう。

 

 斎王宮の日差しは春でした。それでも風はまだ冷たいです。それでも延々とどこまでも続く祓川の小径の菜の花と河津桜はもう春そのものです。

 

 

 

 祓川から斎王宮への旅を6分ほどの動画にまとめました。