大晦日に思うこと この1年を振り返って | バイカルアザラシのnicoチャンネル

バイカルアザラシのnicoチャンネル

 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 大晦日になると中国の詩人李白の言葉を思い出します。

 

 それ天地は万物の逆旅にて、光陰は百代の過客なり。

 

 天地のすべては宿屋のようなものであり、月日は百代の旅人である。こんな意味なのでしょうか。それを松尾芭蕉は引用して、「奥の細道」の冒頭でこのように表現しました。

 

 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。

 

 月日は永遠の旅人のようで、過ぎゆく年月もまた旅人である。これとよく似た表現にベブライ人の言葉があります。それは私たち人間は天幕のような一時的な存在であり、永遠に続く天の国があるというのです。宇宙が誕生して138億年になります。地球ができたのは45億年前、人類が誕生したのは450万年前、私たちホモサピエンスが登場するのはわずか20万年前のことです。ホモサピエンスとは知恵ある人という意味ですが、21世紀初頭の私たちの生き様を見るととうてい知恵ある存在とは思えません。

 

 20世紀は二度の世界大戦の世紀でした。新しい21世紀は平和の世紀と思いきや、それは初っぱなからくじかれました。このまま行けば、戦争が拡大する可能性もあります。そして、それを待ち受けるのは戦争か平和かという問題を越えて、地球規模の危機が待ち受けています。それは世界大戦という惨禍よりも、地球の熱暴走という危機です。18世紀のイギリスに始まった産業革命は世界に広がり、人類は二酸化炭素を放出してきました。21世紀はどうしてもこの熱暴走を止めなければならない課題があります。少なくとも2050年までに二酸化炭素の放出を0にしないと地球という惑星の熱暴走を止めることはできません。金星を見れば、400℃の灼熱の世界です。私たちは他の国を侵略して領土を広げようなどとしている余地はどこにもありません。

 

 私たちの生きるスパンは長くても100年足らず、それは李白や芭蕉が詠ったように一時(いっとき)あるいは一瞬のことです。なのに、私たちは永遠に生きるかのような幻想を抱いて、国や人や物を自分のものとしようとします。ホモサピエンスと同時期に生きていた人類がいます。ネアンデルタール人です。彼らはホモサピエンスの隣に暮らしていました。ホモサピエンスは隣の人の食物を奪い、居住地を侵して彼らを絶滅に追いやりました。ホモサピエンスの特徴は、むさぼること。浪費癖のあることです。どこまでも好奇心があり、暑いところでも寒いところでも冒険しようとし、全世界に広がりました。課題を克服すること、これが目的となり、達成した喜びは至上の快楽をもたらします。欲望は際限なく大きくなり、どこまでも留まるところがありません。

 

 ブッダ・ゴータマは、どこまでもつつましく生きることが美しいと説きました。地球上で大発生して絶滅した生物が二ついます。三葉虫恐竜です。彼らは世界の津々浦々まで発生しました。しかし、絶滅しています。そして、3番目の生物は人類です。彼らはこのまま繁栄を続けるのか、それとも絶滅への道をたどっているのか。今、それを検証する必要があります。慎ましさを忘れた人類は、太陽系の第三惑星を熱暴走へと走らせます。三葉虫や恐竜が生き延びた年代よりもはるかに短い30万年も経たないうちに絶滅する可能性が見えてきました。それは、人類だけに留まらず、40億年前に生まれた生命の存在さえ脅かします。

 

 私たちの命が旅人のような存在であり、一瞬の生ならば、私たちの子孫に何を残すかは明らかです。私たちが残すべきものは慎ましさと平和なのでしょう。私たちの生がテントのような仮のものであるなら、なおさらあれもこれも自分の物にしようなどと求めてはいけません。

 

 新しい年を迎えるにあたって大晦日のこのとき、ブッダ・ゴータマの言葉に耳を傾けたいと思います。「慎ましく生きることはよいことである」。

 

 学生時代にツーキディディーズの「歴史」という本を読んだことがあります。イギリスが大英帝国をつくり世界に植民地を広げていった時代によく読まれました。内容は、古代ギリシアのアテネとスパルタが同盟国の些細な事件からペロポネソス戦争という大戦争に至る歴史が書かれています。初めは小さな同盟国同士の紛争がアテネとスパルタの戦争へと拡大していきます。それぞれの大義名分はあります。そして、どちらも正義を旗印にして戦います。一度戦争が始まると止めることができません。人々を戦いに駆り立てるためにいかに論理的に雄弁に語るか。ツーキディディーズが描いたのは、いかに人々を説得するかでした。アテネもスパルタも総力戦を重ね、ギリシア世界は衰退していきます。そのかわりにペルシアやローマが新興してきます。

 

 その歴史は、今年の2月24日に起きたことと大変似通っていることを忘れてはなりません。

 

 ・恐怖が戦争を起こす一因になる。その多くはありもしない思い込み等・・・

 ・大義名分があり、自分はどこまでも正しいと思っている。
 ・綿密な情報なしに、自分は勝てると思っている。(思い込んでいる)

 ・大義名分は、戦争が進むとともに別の名分にすりかわる。

 ・些細なきっかけで、さらに同盟を結んだ国に拡大していく。国を巻き込み、外交は武力での支配と服従の関係となる。

 ・戦時下では人間の権利は疎かにされ、尊厳は破壊される。人間関係も支配と服従の関係が強まる。

 ・一度始まるとなかなか終わらない。何世代にもわたって続くことがある。

 ・総力戦になるとどちらの国も衰える。

 

 さらによく似ているのは、どちらかというと民主主義のアテネと専制主義のスパルタ。アテネは他の国にも民主主義を他の国にも広めようとしました。スパルタは他の国にスパルタ式のやり方を押しつけるようなことはしていません。アテネのデモチラチアという民主政治は、アテネ市民による民主制であり、奴隷階級には縁のないものでした。現代、自由と平等、幸福の追求を憲法に掲げる国でも、一部の人種で富の集中があります。

 

  しかも古代現代を問わず、宗教が政治と結びついています。旧約聖書の歴史は、異教徒を聖絶すること、つまり撲滅することでした。汚れたものはこの世界から絶滅させる。考えの違い、宗教の違い、民族の違いを認めず、存在を価値あるものとしませんでした。戦前のドイツはゲルマン民族に優勢があり、ユダヤ民族を迫害しました。民俗を洗浄する。同じ遺伝子が流れているホモサピエンスなのに。人間なのにどうしてそんな残酷なことができるのか。虐殺ができるのか。私たちはそんなことはない。違う。これも人間の思い込みです。なぜなら、私たちにはネアンデルタール人を絶滅に追いやったホモサピエンスの歴史があるのですから。わたしたちもその子孫なのです。そして、ネアンデルタール人の遺伝子も私たちは受け継いでいます。

 

 民主主義は正しいと思います。少なくとも西側陣営・自由主義の社会で生きている私たちは正しいと思っています。しかし、本当にそうなのか。それは私たちが思い込んでいるだけで、ひょっとしたらそうではないかも知れない。そう疑って見る価値はありそうです。私たち日本人は先の大戦で負けたことにより、米国の民主主義を取り入れました。そして、市場を開放し技術立国で国民生活は豊かになりました。その意味では、民主主義・自由主義は社会主義よりも優れていることが証明されました。しかし、真の意味で人々の生活が豊かになったのか、幸せになれたのかを考える必要があります。

 

 激動の一年間で考えたこと、発見したことの一つは、「慎ましく生きること」2500年前のブッダがたどった道でした。この道をたどれば、何かが解決できるような気がします。一人ひとりがそうすれば、すべての解決の糸口にたどり着けるのではないかと。なぜなら、私たちの生は旅人のようなものであり、天幕のようなあり、この世界は仮住まいなのですから。最新の研究ではネアンデルタール人は自分が生きるだけの物しか求めず、満ち足りる術を知っていたようなのです。なぜそれ以上の物を求めるのですか。求めれば求めるほど、満ち足りることから離れていきます。ひょっとしたら、ネアンデルタール人は満ち足りる術を知っていたのかも知れません。最後のネアンデルタール人が独りぼっちで絶滅していったとは思えません。最後のネアンデルタール人は、私たちホモサピエンスと同居していたでしょう。そして、その遺伝子をホモサピエンスに受け継いだ。その遺伝子こそ、ホモサピエンスを絶滅から救ってくれるかも知れません。慎ましさこそ、後世に残すべき美徳なのかも・・・


 

 来年こそ、うさぎのように平和への躍進の年となりすように。

 

 

参考図書 

The History of the Peloponnesian War By Thucydides
原文のギリシア語版や英語版はテキストが無料でダウンロードできます。