受難週3日目火曜日は最後の晩餐です。ミケランジェロの壁画が有名ですが、いったいこの日に何があったのでしょうか。キリストは弟子たちに、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」といいました。これを聞くと、イスカリオテのユダがその場から去りました。イエスは弟子のペトロにも、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言い、ペトロの裏切りを預言します。ヨハネによる福音書 13章21~38節の記事を見てみましょう。
イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
記事の中の「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というキリストの新しい教えはキリスト教の中心です。キリスト教はこの短い言葉ですべてを表すことができると言えるでしょう。それにしても弟子達は誰が裏切るのか。ひよっとしたら自分かも知れないと疑心暗鬼で何とも鈍感な人ばかりです。これから十字架に掛かるというイエスの気持ちと弟子達の想いは何ともちぐはぐな様子が鮮明に描かれています。一番弟子のペトロでさえ裏切ることをイエスは知っていました。弟子達でさえ火曜日には群衆とさほど変わらない者だと言えましょう。
ユダもペトロもイエスを裏切ったことでは同じです。ユダはイエスを売って銀貨を得ましたが、そのあと自死してしまいまた。ペトロはイエスを否認したことを悔いて復活したイエスに再び従いました。ユダとペトロの違いは、自分が裏切ったことを悔いてイエスの元にもどったかもどらなかったかだけです。キリストの愛は無条件です。見返りを求めません。ただ許すのみ。それが本当の愛の形なのでしょう。神だからできる愛なのかも知れません。イエスを救い主だと信じた人たちは、完成を目指して限りなくキリストに近づこうとしてきたのでしょう。