まだ夜が明けたばかり。眠い、ねむい。窓の前には今朝巣立ったばかりの一羽のスズメがいる。うるさいったらない。朝からそんなにさえずらなくても一日は長いのに。
まだ産毛がいっぱい生えていて、飛び方も下手くそ。早く巣に戻って親鳥から餌をもらって朝食が終わってから出直して欲しい。とにかく電線でさえずりまくるのは止めて欲しい。
北原白秋の短歌にこんな一首があります。白秋は葛飾に住んでいました。当時は極貧の生活で、庭に飛んでくるスズメに餌をやりながら観察する日々でした。
飛びあがり 宙にためらふ 雀の子 羽たたきて 見居り その揺るる枝を
巣立ったばかりのスズメの子が枝から飛びあがると、その枝が揺れてもう止まるところがないので一瞬宙ででためらってしまった。こんな様子をそのまま描いた一首です。白秋はもともとアララギ派に属していて正岡子規の写生を拠り所にしていました。この歌を詠んだ頃は、白秋はアララギ派から離れて、葛飾に住んでいた頃の物です。
白秋はこの風景を実際に見ていたのか?これは彼の心象風景で、飛び上がったスズメの子は白秋自身でアララギ派から離れ、独自の作風を追求する白秋はもう戻るところがない。極貧の中で満を持しての一句だというのです。歌を解釈する人は白秋の生涯や時代背景から三十一音に迫ろうとします。何とも深い読みだと思います。
白秋自身に尋ねたら何と言うでしょう。こんな解釈もあるのか。と驚くかも知れません。この一首、言葉の通り読んだ方が面白い気がします。極貧の中の透徹した目が三十一音に定着した名作です。やっと飛べるようになって大着をしたら枝が揺れて止まれない、子スズメの一瞬のためらいの面白さを一句にしました。大学入試の二次試験問題で主題を問う模範解答が公表されました。出題された本文の著者は、その解答を見てこれは自分の意図したことではないと談話が出され、笑うに笑えない話もありました。このときの白秋のインスピレーションは日常にある中の非日常の一瞬一コマを切り取った物なのでしょう。