太陽活動が弱くなったら、芭蕉や西鶴が活躍した | バイカルアザラシのnicoチャンネル

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 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 太陽は今日も西の空に沈み、明日の朝には東の空に昇ってくるでしょう。お日様はいつも私たちに恵みを与え、変わらない物の象徴です。ところが江戸時代の初め、太陽活動に異変が起きました。マウンダー極小期です。マウンダーミニマムと言われる太陽活動が低調になる現象は、1645年から1715年まで半世紀以上続きました。

 

 この絵はイギリスロンドンのテムズ川を描いた物です。テムズ川はかんかちに凍りつき、人々は川を行き交いしています。中には川の中に居酒屋もできたとか。ロンドンはペストが流行し、多くの人が亡くなりました。これた太陽活動が低調になり、小さな氷河期が起きたためでした。

 

 日本ではどうだったでしょう。この時期は元禄文化で上方で町人文化が花開いたときでした。松尾芭蕉や井原西鶴、近松門左衛門が活躍した時代です。芭蕉は、「野ざらし紀行」を書いています。何が野ざらしになっているのか、江戸から東海道を経て故郷伊賀上野に旅した紀行が描かれています。道ばたにはおびただしい骸骨が野ざらしに。俳句の紀行文なら風流かと思えば、どんでもありません。東北で飢饉が起こり、日本国中が飢饉になりました。芭蕉は一人の孤児に出逢います。芭蕉は子どもにご飯をあげ、一句詠んで彼に語りかけました。「お前の力なさを嘆け。決して父がお前を粗末にしたわけでもない、母が疎んじたのでもない。」なんと芭蕉の冷たいこと。しかし、この時代、捨て子はどこにでもあり、独りの孤児に対して何もしてあげられなかった、そんな余裕はなかったのです。彼にしてあげられたのは、一握りのおにぎりをあげるのと、こんな世の中だけど何とか生き延びてくれ。父母が捨てたくて捨てたわけではない。芭蕉はそのときできるだけのことをしたのでした。

 

 私たちが「奥の細道」を読むとき、夏の風景がクライマックスに来ます。青々とした深緑の中、美しい東北の風景が浮かびます。「夏草や 兵どもが 夢の跡」青々と生い茂る夏草、むっとするような夏の午後。でも、三陸沖から冷たい湿った風やませが吹き込んできます。冷害をもたらすやませ、やがて東北は飢饉に。芭蕉が見た夏草はどんな色をしていたのでしょう。私たちが想像するより弱々しい緑もあせたような物だったかも知れません。そうなると高館で戦った兵達の夢はもっと儚い夢でしかなかったことになります。芭蕉の侘び寂びの境地は、ひよっとしたら太陽活動の低調さ、気候の寒冷化が引き起こしたと言えないこともありません。芭蕉の生涯はこのマウンダーミニマムとほぼ同じ時代であり、私たちが経験している温暖化の進んだ気候とは遙かに寒冷化した時代に生きたことに注目する必要があります。

 

 話を芭蕉から近松門左衛門に変えてみましょう。「曽根崎心中」の冒頭部分です。

 

 此の世の名残。夜も名残。死に行く身を譬たとふれば。あだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。
 数かぞふれば暁あかつきの。七つの時が六つなりて残る一つが今生の。鐘の響きの聞き
おさめ。太夫寂滅為楽二人と響ひゞくなり。

 この世が名残惜しい。夜も名残惜しい。これから死んでいく身を例えれば、死体置き場のあだしが原への道に置く霜のようである。一歩一歩消えていく。夢の中の夢こそ哀れなものである。
 数えてみると夜明け前の七つ時の鐘が六つ鳴ってあと一つ残るのがこの世の別れを告げるのだ。鐘の響きも聞き納め、大夫二人は煩悩を消すことこそ最上の喜びの中を死んでいく。鐘の音はそう聞こえるのだ。

 

 徳兵衛とおはつは、四時を告げる七つ時、六つの鐘が鳴り残りはあと一つ、それがこの世の別れになる。この世で結ばれない二人は、もうあの世で結ばれるしかないのです。何とも悲しい物語の始まり。ここにも化野に向かう霜が降りた寒々とした風景が描かれています。この作品によって若い二人の心中が広まり、幕府は浄瑠璃の上演を禁止しました。それは単に一文学作品が心中や自死を流行らせたというにはあまりにも早計です。そこには冷害による飢饉や庶民生活の貧困化がありました。

 

 元禄と言えば商人が隆盛しさぞ華やかな文化が上方で花開いたと思いがちですが、こと文学作品を見るとそうでもありません。それは、太陽活動が低調でお日様の恵みを充分受けられない庶民が懸命に生きようとする姿、心意気を描こうとしたのでしょう。この世は侘、寂である。芭蕉がたどり着いた侘び寂びの境地は、マウンダー極小期が招いた浮世の姿に霊感を受けたものかも知れません。