桜坂には、桜が植えてあります。そんなの当たり前って人は言うけど、桜坂を登っていくと必ず共通するものが祭られています。折からの強風と強雨で桜の花びらは桜坂一面に散ってしまいました。
桜坂の棚田には水が張られて、桜を水面に映し出します。谷川から引いた水口からのんびりと水が流れて、ここは時の流れも緩やかです。その流れが田んぼの水面を揺らして、山桜は曇りガラスに映し出されたようにぼんやり。優しいやさしい時間が流れています。
山の奥深い茅葺き屋根の民家にも春が来ました。長い冬を通り抜けて、やっと春。屋根の煙突からは檜が燃える香りがして、鼻をつんとつかせます。それはまだ日本が石油革命以前の世界をよみがえらせています。千年一日はこのことなのでしょうか。その香りに郷愁を誘います。
桜坂は桜の坂。言葉で言えば、それはそうなのですが、目で見る桜坂は、まさしく桜の坂なのです。
桜坂の終わりには、絶景ポイントがあります。誰もがここでカメラを構え、棚田の鏡に映し出される山桜を撮ります。ここは峠。峠とは分岐点です。人はそこで一休みします。そして、登ってきた桜坂を振り返ります。ここでお茶を飲み、ここで疲れを癒やします。
危機を峠にたとえることがあります。病が快方に向かうのか、重篤に向かうのか。時には生死を分けることもあります。峠は分岐点。あちらに行こうか、こちらに行こうか。そこで選択を迫られます。そして、人はどちらか自分で決める。桜坂の峠では、歩んできた道程に思い巡らし、選んできた選択を振り返り、あるときは後悔し、あるときは歓喜に浸ります。後悔も歓喜も入り交じった狭間の中で、どちらも自分が決めたこと。選んだこと。これでよかったのだと、ありのままの自分を受け入れます。そして、人はまた桜坂を登っていきます。
桜坂の終点は、夫婦杉。そこには蔵王権現が祭られています。役行者が山上ヶ岳で蔵王権現を祈り出したとき、その形を桜の木に彫りました。桜は蔵王権現の神木なのです。そう、桜坂に植えられた桜はすべてが蔵王権現様への帰依を表しているのです。その憤怒の形相は、人間を悟りに導く仏の慈悲を表しているのです。
人はなぜ、桜坂に来るのか。ここに来ると分かります。そこは日本人のDNAにすり込まれた魂の回帰があるのかも知れません。たとえ引き裂かれた魂であろうがすべてを癒やし、たとえ幸福の絶頂にあろうがすべてをへりくだらせる強いパワーがここにはあります。
坂に桜が植えてあったら、それは桜坂です。それがどんなに短くてもどんなに無名でも、その終点には、あなたを変える何かがあります。桜も終盤。蕾の桜も、満開の桜も、散りゆく桜も、葉桜も、そのときその一瞬を楽しみたいと思います。