イタリアのテルニにバレンタインという司祭がました。三世紀のローマはクラウディオス帝の治世でした。皇帝はローマ兵の士気が下がらないように結婚を禁止します。司祭は皇帝の命令に背いて、兵士達に結婚の秘蹟を行いました。彼は教会の庭にある赤い薔薇を愛し合う二人に贈ったといいます。救い主の教えのとおり司祭は、「あなたがたはお互いに愛し合いなさい。」と説きました。
このことは皇帝の知るところとなり、バレンタインは牢に捕らわれます。貧しい盲目の少女が毎日のように、司祭の説教を聞きに来ていました。司祭は少女に話しました。「あなたがたは互いに愛し合いなさい。愛こそが世を救うのです。」乾いた土に雨が吸い込むように、飼い葉桶に生まれた救い主の言葉は、少女の心に浸透してきました。どんなものであっても満たされることのない心の空洞は、救い主の愛で満たされていきました。司祭は、少女に洗礼を施します。すると少女の目は見えるようになりました。
皇帝は司祭が盲目の少女の家族に洗礼を受けたことを知ると、司祭を処刑する命令を出しました。明日は処刑が執行される。雨が降っている。一雨ごとに春をもたらすこの雨は、殉教者の心を潤した。これは神からいただいた恩寵の雨であった。この雨が止んだら春が来る。この雨が止んだら処刑台に上る。その夜、バレンタインは少女に手紙を書きました。その手紙は今は失われて、誰も読むことはありません。それは、永遠に世の中から秘められしまった手紙なのです。伝説ではこう書かれていたといいます。「愛する娘へ・・・・あなたのバレンタインより」
刻まれた文字は、やがて、魂に届き、光を放ちます。司祭は少女を愛していたのです。それは見返りを求めない、自分の命に替えても、なお有り余る恩寵の中で、至福の喜びに浸るような、それでいて、光の国に招かれるようなまぶしい存在と一つになる幸福。純粋に透明に結晶した愛の言葉がパピルスに記されていました。
少女は目が開かれて、天空はこんなに広く青かったのか。太陽はこんなにまぶしくて、月はこんなに青かったのか。小鳥はこんなに小さくて、驢馬はこんなに大きかったのか。オリーブの葉はこんなに緑で、トマトはこんなに赤かったのか。少女は司祭を見ました。優しいまなざし。美しい瞳。司祭が処刑台に上ることによって、娘は目が開かれ、救われました。だれでも友のために命を投げ出すほどの大きな愛は、この世界にありません。
日はまた昇り、バレンタインは刑場に引き出されました。「助けよ!」「殺せ!」「彼こそ、愛の人」「背教者」「殉教者」民衆は様々な言葉を吐きかけます。子羊がほふられるように、司祭は黙って処刑台に上がりました。処刑は執行されました。そして、彼は聖人に列せられます。教えに殉じたものとして、教えに忠実に従った者として、命の身代わりに魂の救いを得ました。一つの種が地に落ちて死ねば、そこから多くの命が芽生え出ます。独りの愛の人の死は、世界中の愛の人の生を生みました。紀元269年2月14日、聖バレンタイン絞首刑にて殉教。列聖される。
バレンタインつて聖人はどんな人だったのでしょう。もちろん伝説の人のなので実在しないのかも知れません。私なりに想像してみました。バレンタインは盲目の少女を愛していました。その愛とはどんなものだったのでしょうか。見返りを求めない真の愛。命を捧げてもなおありあまる歓びがもたらされる愛。それは信仰によって少女と一つになることだったのかもしません。この地上の世界で、友のために自分の命を捧げるほど深い愛はありません。それができた聖人の愛の姿はどんなものだったのでしょう。少女は司祭にとって、尊くて大切な存在だったのでしょう。だれでも望まれて生まれてきます。父に望まれて、母に望まれて。たとえ、そうでなくてもそれよりも何かもっと大きな存在があなたの誕生を望んでいるのです。それはあなたにつながり、あなたと出逢う人たちのためかも知れません。生まれてくれてありがとう。あなたが生まれてくれたから私は嬉しいです。お逢いできて嬉しいです。本当にありがとうございます。そして、あなたのお誕生を喜びたい。
今日は、女性が男性にチョコレートをあげる日です。でも、本当のルーツは、聖人が殉教した日です。どこまでも愛に生き抜いた人の足跡をこの日、静かに想いたいと思います。