少し前のことなんですが、知り合いのおばちゃんから悩みを持ちかけられました。「ウィンドウズを立ち上げようとしてパスワードを入力したけれど受け付けてくれない」という悩みでした。おばちゃんは、パソコンを通じて、アマゾンプライムを視聴しているそうで、パソコンが開けないと映画やドラマを観ることが出来ません。とても困っていました。専門外なのですが、調べてみることにしました。

 

 ググってみると、パスワードを受け付けなくなったという案件は多いようです。その対応方法についても、色々と解説されていました。キーボードが英数字入力になっていないという初歩的なミスもありますが、おばちゃんの場合はそれらに該当しません。複数回パスワードを打ち込んだことでブロックされてしまい、お手上げになります。その日は、問題を解決することが出来ませんでした。

 

 再度調べなおすことで、パスワードを回避するプログラムの存在を知りました。BIOSからUSBを経由して専用のプログラムを立ち上げるのです。ちょっと専門的ですが、もうこの方法しかありません。早速、専用プログラムをインストールしたUSBメモリーを用意しました。おばちゃんに会いに行きます。パソコンの基幹部分であるBIOSを操作するので少し心配でしたが、何とかパソコンを立ち上げることが出来ました。とても喜んでくれます。その場でお茶を飲みながら、雑談になりました。話の流れで、おばちゃんが吉野家で仕事をしていることを知ります。若い頃から僕は吉野家の牛丼を好んで食べていました。

 

「吉野家の牛丼は、特別に美味しいですよね」

 

「そう、ありがとう。でもね、あの味を安定して出すのは難しいのよ」

 

「どういうことですか?」

 

「出来立ては味が若いの。火をかけ続けて煮詰めていかないと、深い味にはならないのよね」

 

「へー、そうなんですか」

 

 何気ない会話だったのですが、吉野家の牛丼の話が僕の記憶の残りました。病み付きになるあの吉野家の味は、煮詰めていくという工程が必要だったわけです。つまり、時間が必要でした。時間を掛けることは簡単です。でも家庭で調理する場合は手早く作りたい。おばちゃんと話をしながらそんなことを考えていました。

 

 話は変わって、最近、酢豚にハマっています。暑い夏に、甘酸っぱい餡に包まれた豚がとても美味しい。ランニングに合わせて、週一で調理しています。疲れ切った身体に、ビールと酢豚。身体に良いのか悪いのか良く分かりませんが、これが止められない。より美味しい酢豚を求めてレシピを検索してみました。すると、中華料理専門店のレシピで面白い調理方法を見つけます。酢豚の餡を作る手前の段階で、フライパンでカラメルを作っていました。

 

 ――!?

 

 驚きです。そんな調理工程……考えたこともなかった。出来上がった酢豚は、カラメルの濃厚な甘さによって、深い味わいが醸し出されていました。マジで美味い。調理スキルが少しアップしました。昨晩、牛丼ではなく豚丼を調理したのですが、早速この奥義を使用してみます。安定の美味しさでした。理解してみれば、どうってことない技なのですが、それに気づくのは難しい。さすが専門店になります。

 

 昨年から、隙間時間でポッドキャストを聞くことが習慣になっています。ゆる言語ラジオ、コテンラジオ、たべものラジオ、ラジオただいま発酵中と渡り歩いてきて、現在「やさしい民俗学」を聞いています。語り手は、岸澤美希さんになります。最近は文化人類学の本を読んでみたり、柳田国男に関心があったりと、歴史書には残されなかった一般庶民の生活に関心がありました。そうした古来からの庶民の生活を知るのに「やさしい民俗学」はとても勉強になります。お米の話に始まり、お正月や太陰太陽暦の話など、目からうろこの話が満載なのですが、特に推しているのはその声。岸澤美希さんの、ゆっくりと語りかけるその語り口調が癒し系なのです。とてもウットリ。第25回は、民俗学から離れて岸澤美希さんなりの「学問」についての考察回になります。これが面白かった。

 

 僕なりの大雑把な解説になりますが、学問の要素について因数分解していくと、データ、情報、知識といった概念をあげることが出来ます。データを日本語に直すと「基礎事実」になります。調理で考えると、データは材料に該当するでしょう。カレーを調理するのであれば、お肉、玉ねぎ、ジャガイモ、ニンジン、カレールー、お水といった材料が必要になります。素材の一つ一つは、カレーの材料ではありますが素材単体のままではカレーとはいえません。それぞれの素材を関連付ける必要があります。その関連付ける行為が調理であり、レシピとして完成されたものが「情報」と捉えることが出来ます。秘伝のレシピといった情報はとても価値があります。では「知識」とは何でしょうか。

 

 知識は幅広い意味を網羅しているのですが、今回の事例で考えると個々の情報を体系立てて分類し、ジャンルとして確立したものになります。学問には様々な分野があります。科学、文学、哲学、医学、音楽、芸術。このように体系立てられた情報の集まりを「知識」と考えてよさそうです。先ほどの調理の例で考えてみると、老舗料理店のように秘伝の味が弟子に継承されていたり、調理学校が存在するなど、体系化された調理に関する知識というものが存在しています。また、カレーの始まりはインドになります。インドのカレー文化が日本にやってきて、文明開化と共に日本的なカレーライスが誕生します。カレーライスだけでなく、カレーパン、カレーうどんといった派生食品も誕生していくわけですが、そうした歴史的背景を見ていくだけでも一つの知識として確立することが出来ます。

 

 ここで、「学ぶ」ことの意義について考えてみたいと思います。学問とは、データ、情報、知識を体得する行為になります。テストで良い点数を取るためではありません。表面的に知っているではなく、体系立てられた知識の全体観を認識する行為になります。この認識には浅深があり、より深く理解を試みることが学ぶ姿勢になります。

 

 ――では、何のために「学ぶ」のでしょうか?

 

 学ぶ目的観によって、学問の効果は大きく変わると考えます。端的に表現すると、学問は「技術」もしくは「道具」と考えることが出来ます。例えば古代において農作物を効率的に収穫することは、国の経済に関わる問題でした。星を観察することによって四季の移り変わりを読み取り、暦が生まれました。小作人と土地の区分を効果的にするために、三角関数が生まれました。全ての学問は、良い結果を得るための道具であったわけです。

 

 現在においては良い大学に入るためのスキルに成り下がってしまい、「何のために学ぶのか?」という問いかけが子供の中で燻っているように感じます。国の政策として、全ての子供に勉強する機会を与えることは素晴らしいことだと考えます。しかし、昨今では、不登校、学級崩壊、いじめ、大学のレジャー化等、教育の歪が散見されます。画一的に生産工場のように子供たちに勉強を教えるという学校教育の仕組みそのものが、少しづつ破綻してきているのではないでしょうか。大人が子供たちに教えるべきものの本質は「何のために学ぶのか?」という動機付けだと考えます。学問とは手段であり目的ではありません。学ぶ意味と生きる目的がリンクした時に、初めて学ぶ喜びを感じるのだと思います。

 

 とは言いつつ、「何のために?」を子供に伝えるのは難しい行為です。僕の息子たちはなかなか学校に行きたがらない。ついつい老婆心から「何のために?」を語ってしまうのですが説教臭くなってしまい、嫌そうな顔をされます。かといって言わなければいつまでたっても学校に行かない。そんなジレンマを感じています。現在の僕は、僕こそが背中を見せる必要があると自分に言い聞かせて、飛鳥時代を勉強しています。多角的に勉強しています。目的は決まっているので、後は勉強あるのみです。とは言いつつ、自分を鼓舞するのもなかなか大変な行為になります。