最近は、聖徳太子の事績とされる冠位十二階と十七条憲法の勉強を始めたのですが、これが意外と難しい。表面的な内容だけなら教科書にも載っています。しかし、なぜこのような制度や憲法が必要だったのかと、その背景を見ていくと従来的な大和王権の政治体制と比較しなければなりません。また、それら制度の思想的な構造を読み解こうとすると、元となった文献まで調べる必要があるのです。

 

 例えば、十七条憲法は有名な第一条である「和を以て貴しと為す」で始まりますが、第二条では「篤く三宝を敬へ」と述べています。三宝とは、仏・法・僧のことで、仏教において重要とされる宝になります。仏とは悟りを得た人のことで一応は教主釈尊のことを指しますが、釈尊の一生は人々を仏に目覚めさせることが目的でした。法とは悟りの根幹をなすものになります。僧とは仏・法を信じて実践する人々、またその集団を指しました。聖徳太子は仏教をベースにした国づくりをこの十七条憲法によって宣言したわけですが、聖徳太子の思想的バックボーンは仏教だけではありません。儒教からも強く影響を受けたことが、冠位十二階に見られます。

 

 冠位十二階は、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二の序列を制度化したものですが、大小という区分を取り除くと、徳・仁・礼・信・義・智になります。これは儒教が説く「仁義礼智信」がベースになっています。「仁義礼智信」とは、人の上に立つ者に求められる特性のことですが、冠位十二階では少し変更されています。徳が追加されていることと、特性の順番が違いました。梅原猛氏は、この「徳仁礼信義智」の順番に聖徳太子の思想が反映されていると述べています。詳細については、僕もまだ勉強中なのでここでは語れないのですが、冠位十二階と十七条憲法はお互いに関係しあっており、比較しながら考察する必要があるそうです。法華経や勝鬘経といった仏教由来の文献だけでなく、儒教の依処である論語の理解も必要なため、僕の頭の中はちょっとフリーズ状態です。あまりにも情報量が多すぎる……。

 

 勉強しているとだんだんと眠たくなってきたので、気分転換に読む本を変えることにしました。それが奥野克巳著「文化人類学入門」になります。この本の前段で、18世紀ごろの西洋の啓蒙思想について紹介がありました。啓蒙思想の特徴に、西洋の学問は進んだ考えたかなので、未開の文明に科学的なまた合理的な理性の光を届ける使命がある……がありました。このような考え方は生物進化論と比較されて「文化進化論」とよばれているそうです。この考え方は白人社会の優位性へと転換されて、列強諸国による植民地支配を正当化しました。

 

 しかし、文化人類学では文化の上下は問いません。研究者は、現地の中に入り込み、現地の人々と共に生活していく中で、その現地特有の文化の違いを浮き彫りにしていきます。そうした研究のことを、フィールドワークというそうです。ただ、そうした研究も切り口によっては見え方が異なります。その切り口のことを、「自文化中心主義」と「文化相対主義」といいます。自文化中心主義とは、自分が信じる文化的価値観でもって、相手の文化を判断する手法になります。これは、先ほど紹介した「文化進化論」に通じる考え方でした。

 

 対して、文化相対主義とは比較されるお互いの文化の差異を研究することによって、人類という存在をマクロ的な視点から捉えなおす学問になるそうです。良い悪いではなく、なぜそのような差異が生じたのかを歴史的な背景を通じて考えていく。そうした文化人類学的なニュートラルなスタンスは、とても学びがありました。

 

 聖徳太子の世界を、僕は表現したいと考えているのですが、この時代は神道的な大和王権文化と仏教的な大陸系文化が衝突した時代でした。そのカルチャーショックを描きたいのですが、僕のスタンスが「自文化中心主義」なことに文化人類学を通じて気が付きました。危うく、仏教的価値観でもって神道世界を推し量るところでした。素晴らしい作品を作り上げるためには、神道的な世界観を僕の中にインストールする必要があります。そうした神道的な視線でもって飛鳥時代を見つめなければ、外来の仏教的価値観の脅威が分からない。

 

 ――ん?

 

 物語の始まりが、ぼんやりと見えてきました。聖徳太子の世界を描くためには、先に神道的な大和王権の世界を丁寧に描写する必要があります。そうした祭祀的で呪術的な世界観の中心人物は、物部守屋を当主とする物部一族でした。物部守屋は丁未の乱で蘇我馬子によって滅ぼされてしまうのですが、この物部一族に主人公的な人物が欲しい。その人物を中心にして、物語を紡ぎ始めるのが自然だと感じました。そこで思いついたのが、表題にもある「捕鳥部万(ととりべ のよろず)」になります。性はありません。名は万(よろず)になります。捕鳥部というのは弓でもって鳥を捕獲する部民なので、つまり狩人になります。日本書紀に記される、彼の活躍を振り返ってみたいと思います。

 

 丁未の乱の舞台は、現在の八尾市になります。八尾市は物部一族の支配地域であり、戦争の主力武器である弓と矢を製造する工業地帯でもありました。稲城と呼ばれる弓矢を防ぐ防護壁を作り、物部一族は蘇我の連合軍を三度も押し返します。そうした戦争のさなか、捕鳥部万は、100人の兵を預かり難波にある物部守屋の邸宅を守護していました。主人の邸宅を任せられるということは、それだけ信頼されていたのでしょう。

 

 ところが物部守屋が討たれ戦に負けた報告が難波の邸宅に届きます。捕鳥部万は妻の実家がある現在の貝塚市に逃げることにしました。ところが、そうした捕鳥部万に追手が向けられます。捕鳥部万は山の中に逃げ込み追撃の手を躱していくのですが、多勢に無勢。その包囲網がドンドンと狭められていきました。とうとう敵の矢が捕鳥部万の膝を射抜きます。その弓を自分の手で抜き取ると、大きな声で叫びました。

 

「万は、天皇の楯となり、その武勇を示そうとした。しかし今、誰もそれを問い質すことはない。反対に窮地に追いやろうとしている。共に語る者は来るがよい。殺すのか、捕らえるのか、それを聞きたい」

 

 捕鳥部万の叫びに、更なる弓矢が放たれました。その矢を剣でもって薙ぎ払い、捕鳥部万も応戦します。

弓の名手である捕鳥部万は負傷してなお30人以上の兵を返り討ちにしました。しかし、さすがの捕鳥部万も矢が無くなり剣が使いものにならなくなると、とうとう覚悟を決めます。短剣を取り出し、自らの頸に刺して自害しました。

 

 報告を聞いた朝廷は、捕鳥部万の遺体を八つに切り、串刺しにして晒すことを命じます。ところが、串を刺そうとすると、突然に雷鳴が轟き大雨が降りだしました。その時、捕鳥部万が飼っていた白い犬が現れます。万の首を咥えると走り去っていきました。その後、白い犬は穴を掘りその首を埋めたそうです。主人の首を護りながら、その白い犬も死んでしまいました。

 

 僕が注目するのは、捕鳥部万の叫びになります。天皇を護る盾として働いていたはずなのに、なぜかその天皇から追われる存在になってしまった。理解が出来なかったでしょう。正義とはいったい何なのか? という命題を想起させられます。彼は、蘇我馬子や聖徳太子の存在をどのように感じていたのでしょうか。捕鳥部万が見ていた世界観を僕も見てみたい。