納豆を手作りしてみた話を、前回ご紹介しました。完走大豆を水で漬け込むのに一日。豆を蒸して発酵させるのに一日。冷蔵庫で寝かして熟成させるために一日必要なので、最短で三日という時間が必要になります。昨晩、寝かせる前の納豆を味見してみました。

 

 ――ん?

 

 臭さを期待していたのですが、あまり臭くない。懐かしい思いにさせられるような、ほんのりとした香り。

 

 ――失敗したのかな?

 

 でも、豆の表面にはうっすらと白い菌糸が纏わりついていました。失敗ではないようです。熟成されていないし、まだ塩気が添加されていないので、旨味は少ない。でも、不味くはありませんでした。ただ、少し硬めだったので、もう少し長めに蒸したほうが良かったかもしれないな……という反省はありました。それでも、上手に発酵できたような気がします。また、今回は黒豆と枝豆を納豆にしたわけですが、黒豆のほうがコクがあり美味しかった。

 

 納豆作りを一度経験したので、色々な改善点を思いつきました。蒸し時間の調整はもちろんのこと、40度という温度を維持するための発酵環境の用意が必要になります。手ごろな発泡スチロール容器を用意したい。また藁にこだわるのなら、藁の入手についてルートを探さないといけません。ただ藁に関しては、欲しいのは藁に住み着いている納豆菌になります。納豆そのものをぬるま湯で解いたものを種菌として使うこともできるので、そこは臨機応変でいいのかもしれません。そんな手作り納豆を、末っ子のレントに勧めてみました。かなり嫌そうな顔をしています。

 

「臭くないって、美味しいで」

 

「なんだか未知の領域に踏み込むような怖さを感じる」

 

 未知の領域って……。

 

「頼むから、一粒だけ食べてみてよ」

 

 無理強いする父親に顔を歪めながら、レントが一粒食べました。

 

「……まぁ、食べれんことはない。でも、もういい」

 

 逃げるようにして、パソコンがある子供部屋に逃げていきました。実は、毎日ぬか漬けを仕込んでいますが、食べているのは僕だけです。時々、嫁さんも食べますが、酸っぱいと嫌がります。日本古来の伝統食品が美味しいと感じているのは、家族の中でほぼ僕だけ。同じように生活をしながら、家族とは別の時間軸で生きているような疎外感を感じております。慣れましたけど……。

 

 現代は、手軽になんでも手に入ります。子供たちはコンビニの唐揚げが好きですが、あの唐揚げが出来るまでのバックボーンについて想像したことはないでしょう。お店で売っている牛肉が、実は生きていた牛だったことを知識の上では知っていても、実感したことはないでしょう。僕も偉そうなことは言えません。子供と似たようなものです。

 

 縄文時代の人々と、僕たち現代人の大きな違いの一つに、生きるためのスキルが大きく違うことが挙げられます。縄文時代の人々は、狩りをするスキル、土器を作るスキル、布を織るスキル、調理のスキルというように生活に直結したスキルを自らが身につけないと生きていくことが出来なかった。他人には任せられないのです。

 

 対して、現代社会は様々な仕事が完全に分業化されています。米を作る人、米を売買する人、炊いた米を食べさせる食堂を営む人、工場でレトルトの米パックを作る人、米でおかきを作る人、米で日本酒を作る人、様々に分業化されて、それらをお金でもって流通させています。現代社会では、お金を管理できるのは大切なスキルの一つになります。また、そうした複雑化された社会を俯瞰して活用できる力も、現代を生き抜くうえでは必要な力でしょう。

 

 そうした社会で生きている僕ですが、お金で簡単に手に入るものにあまり興味がありません。納豆を作るという小さな事柄であっても、そこには古来から受け継がれてきた技術があります。そうした世界を知ることが、実は楽しい。僕のひとり遊びになります。