以前に「名代・子代と名前の由来」という記事でご紹介しましたが、古代の習わしでは新しい大王が誕生すると、新たに宮殿が築城されました。大王たちの宮殿の場所について傾向性をみていくと、山の麓が多い。個人的には、これは水田を広げるための国家事業の拠点として、宮殿を置いたのではないかと考えています。陸稲に比べて水田稲作は、毎年米を収穫することが出来ました。これは大きな長所になりますが、その為には田に水を供給する灌漑設備を用意しなければなりません。そうした灌漑設備として古墳の堀を建造していたと僕は考えています。古墳が王族の墓なのは間違いありません。しかし、主たる目的はため池を作るための灌漑設備だった。そうした大いなる事業を行った大王を顕彰する意味で、死後にその古墳に埋納されるのはとても自然なことだと思うのです。

 

 大王が薨去されると、新たな古墳とセットの水田の開墾事業が始まりました。それは、新たな宮殿の建設でもあるのです。そうした公共事業は、生涯をかけての事業だったことでしょう。だから、大王ごとに一つの宮殿が建造されたと考えています。残された宮殿には皇族の子供たちがその管理に当たりました。例えば、穴穂部皇子は穴穂部宮の管理を任されていたから穴穂部皇子と呼ばれていたのです。その穴穂部皇子の養育を含めてサポートする人々のことを、穴穂部と呼びました。これが名代・子代になります。

 

 そのような一代一宮のパターンではなく複数の宮殿を建設したのが、継体天皇と推古天皇になります。継体天皇は元々越前国・近江国を治めていた大王で、乞われて大和の大王として即位したのでパターンが違うのは仕方がない。ここでは継体天皇の考察は述べませんが、とても戦略的に立ち回った大王だと考えています。推古天皇は元々は豊浦宮で政治を行っていましたが、途中で小墾田宮(おはりだのみや)に遷都しました。

 

 梅原猛氏によると、この遷都には大和王権としての政治的な意味が含まれていると考察しています。遷都が行われたのが推古期11年10月でした。同じ年の12月には冠位十二階が制定され、翌年の正月に小墾田宮において実施されます。冠位十二階は、それぞれの冠位ごとに色が定められていました。最上位の大徳であれば、濃い紫色になります。そうした冠の授与式が、新しく建設された小墾田宮で行われました。それはそれは荘厳なセレモニーが行われたことでしょう。翌年の推古期12年4月には十七条憲法が制定されました。このように小墾田宮への遷都は、新しい国家づくりに相応しい宮殿を用意したと考えることが出来ます。つまり、国としての強い意志の表れでもありました。

 

 この小墾田宮は、後の宮殿建設に向けた思想がすでに反映されていたようです。天皇が住まう大殿は北に配置され、政治を行う朝堂院は南にありました。大殿と朝堂院は大門によって分けられおり、周りは塀で囲われていました。朝堂院がある朝庭の南には南門があり、出仕する人々はこの南門を利用します。それまでの豊浦宮は、宮殿とはいっても元々は蘇我稲目の家でした。現在は向原寺として残されていますが、小墾田宮の様な宮殿ではなかったと考えられます。

 

 そのような小墾田宮なのですが、実は場所が確定しておりません。江戸時代の学者である本居宣長は、小墾田宮と豊浦宮は一緒であると考えていました。梅原猛は、現在の奈良県桜井市大福にあったと主張しています。現在では、豊浦宮から北東に500メートルくらいにある雷丘周辺に、小墾田宮があったのでは……と考えられています。なぜなら、小治田宮と書かれた墨書が地中から発見されたからです。僕もこの場所で間違いないと考えていますが、梅原猛の大福説も非常に論理的で読み応えのある内容でした。長くなるのでここではご紹介しませんが、当時を想像するうえでは面白い記述でした。

 

 雷丘周辺に小墾田宮があったと考える根拠を、僕も用意したい。それは、甘樫丘(あまかしのおか)の存在です。飛鳥川の西岸にある140メートルほどの高さの丘で、北面の麓には豊浦宮があります。推古天皇はこの丘によく登ったとされます。現在は公園として整備されているのですが、僕も登ってみました。とても見晴らしの良い丘でした。というか見晴らしが良すぎるのです。奈良盆地が丸見えでした。推古天皇が政治を考えるうえで、奈良を意識しないわけがありません。この丘に登れば、まるで地図を見下ろすような感じで、奈良盆地を一望できるのです。当時は、現代のように写真はありませんし、文字も一部の限られた官僚ぐらいしか利用していません。そうした環境の中、奈良を見下ろすということが出来る甘樫丘は、政治を考えるのにとても有効な場所だったと考えるのです。小墾田宮は豊浦宮ほど近くはありませんが、それでも甘樫丘の近所になります。その後、小墾田宮は推古天皇が薨去された後も、何度かピンチヒッターで宮殿として利用されました。かなり使い勝手の良い宮殿だったのではないでしょうか。

 

 ところで、新しい国作りのために小墾田宮に遷都したわけですが、その間接的なきっかけは西暦600年に行われた第一回遣隋使だったと、梅原猛氏は語っていました。日本書紀に記される遣隋使は、西暦607年から始まるので、ここに時間的なズレがあります。西暦600年の遣隋使は、「隋書倭国伝」に記述されていました。隋書による内容をご紹介します。

 

 ――開皇二十年、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(おおきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

 

 僕なりに意訳を行います。

 

 ――西暦600年に、天より降り立った大王の血を引く倭王アメノタラシヒコが、隋に使者を送り帝に謁見した。帝が倭国の風俗を尋ねたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。日が昇らぬ明朝に座して政を行います。日が昇れば、政務を止めて弟に委ねます」と答えた。帝は、「それはとても不合理であるから改めた方がよい」と諭した。

 

 いくつか突っ込みどころがあります。まず、多利思北孤は「垂らし彦」なので、男性の尊称になります。同じように「天が兄であり」との表記もあります。しかし、この時の天皇は推古天皇なので女性でした。この食い違いについていくつかの推論があります。女性が治める国であることを使者がワザと隠したか、通訳がうまく伝わらず間違って記載されたかです。梅原猛氏の言葉を借りれば、「隋に軽蔑されないために隠した」と結論しています。武によって国を治めてきた大陸の常識に照らし合わせると、女性が国のトップに立つということは、それだけで外交上の不利益があったのかもしれません。

 

 次に、「日が昇らぬ明朝に座して政を行います。日が昇れば、政務を止めて弟に委ねます」の解釈になります。文帝はこの言葉に、使者に改めることを諭しました。日が昇らぬうちに政治を始めて、日が昇ったら政治をやめる。現代的な感覚でも、少し奇異に感じる政治スタイルです。このことに対して、梅原猛氏の解釈は納得できるものでした。

 

 ここで「天が兄」は、性別を隠したとはいえ推古天皇のことで間違いはないでしょう。では、「日が弟」は、誰のことでしょうか。この弟が、聖徳太子のことであろうと推論しています。当時の大和王権の政治を、梅原氏は、祭祀と政治とに分けて考えました。日が昇るまでは、推古天皇による祭祀が行われます。日が昇ると聖徳太子による政務が行われました。当時の大和王権は、仏教を政治に取り込むといっても、従来的な祭祀も並行して行っていたのでしょう。

 

 この第一回遣隋使は、大和王権が国として未熟なことを痛感させられる結果に終わりました。日本書紀に記述されなかったのも、それだけ大きな国辱だと感じたからかもしれません。しかし、この第一回遣隋使の失敗こそが、新しい国家を作り上げる動機になったと僕は考えます。失敗は成功の母なわけです。

 

 最後にもう一つ。祭祀を推古天皇が担ったとのことですが、それはつまり巫女ということになります。この時代の、巫女の存在について明確な文献が少ない。推古天皇の和風諡号は、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)でした。豊かな食という意味が内包されています。聖徳太子以前の政治形態は、祭祀と政治が密接に繋がっていました。具体的には、神人共食の直会(なおらい)になります。

 

 神人共食――神と人とが同じ食物を味わうことによって,両者の親密を強め,生活安泰の保証を得ようとする行為

 

 真の継体天皇の墓とされる今城塚古墳では、埴輪による祭祀の様子が再現されていました。盃を掲げている巫女がいます。巫女とは、神と人とを繋ぐ存在であると捉えることが出来ます。女性である推古天皇を即位させたことの大きな意味は、豪族連合という旧来的な組織である大和王権をまとめる為だった。対して聖徳大使は、仏教をはじめとする大陸の文化を日本にインストールして政治に落とし込んでいく改革者だったのです。その二人の間に立つ蘇我馬子は、天皇を暗殺してなお咎められない純然たる権力でした。保守と改革と権力……この三つのパワーバランスを考えないと聖徳太子の世界は理解できないと思います。