昨日も走りました。自宅を出発して万博外周道路を走る12キロメートル。これまでに、ランニングの練習のために色々なところを走ってきました。ランニングコースとして希望する条件は、走りやすいアスファルトで、信号が少なく、車や歩行者との接触が極力少ない道が良い。また、自然というか季節を感じれる風景の中で走るというのも案外と重要であったりします。ランニングを始めたころは、近くを流れる安威川の河川敷を走ることもありました。河川敷の良いところは、大阪の町中でありながら手軽に自然を感じれることです。ただ、僕には合わなかった。河川敷にたどり着くまでがトリッキーでランニングコースに適していないということもあったのですが、コースの近くに焼却場や下水処理施設があったのです。その横を走るのがどうも好きになれなかった。

 

 このようにランニングを始めるといっても、住宅地が多い都市部の場合は走るコースの選定が難しかったりします。初期のころはランニングコースの選定で試行錯誤していたのですが、万博の外周道路を走るようになってからこれ一択になります。ただ、走り始めの頃はこの12キロメートルという距離は、僕にとって長すぎました。手軽に5キロくらいなら精神的にも負担が少ないのに、このコースに固定すると12キロメートルも走らなきゃいけない。当時も膝の負担を抱えていたので、万博の外周道路で膝の痛みが悪化して走れなくなったことがありました。電話をして、家族に迎えに来てもらったことも何度かあります。

 

 ただ、練習を繰り返すうちに、12キロメートルが普通になりました。絶好調の時は12キロメートルを1時間以内で走るようになります。仮にこのスピードを維持出来たら、フルマラソンで3時間半くらいで走ることが出来ます。俄然、やる気になりました。結局のところは4時間1分が最高タイムで、4時間の壁を破ることが出来ませんでしたが、40代の頃のこの走り込みは良い思い出になります。

 

 この頃の僕は、フルマラソンの目的が完走することからより早く走ることにシフトしましたが、実のところ段々とモチベーションは下がっていました。早く走ることに対する限界を感じ始めていたからです。そんな折に、100キロマラソンに興味を持ちました。切っ掛けは水泳部の先輩です。毎年、夏になると水泳部のOB会があるのですが、僕はその席でマラソンの面白さを先輩に語っていました。そんな僕の話に興味を持った先輩が僕に言うのです。

 

「お前に影響されてマラソンするようになったんや」

 

 嬉しい話です。マラソンの話でとても盛り上がりました。そんな先輩が、次の年のOB会で誇らしげに僕に語るのです。

 

「俺な、ウルトラマラソンに挑戦したんや」

 

「マジですか! 何キロ走ったんですか?」

 

「80キロや」

 

 圧倒されました。毎年、フルマラソンの大会に参加していましたが、それ以上の距離を走るという考えが僕には全くありませんでした。同じ「走る」というカテゴリではありますが、ウルトラマラソンは別次元です。丁度そのころ、大阪を流れる淀川で第1回ウルトラマラソンが開催されることになっていました。僕は迷うことなく大会に申し込みます。その日以来、練習は早く走ることよりも、長い距離を走ることが重要になりました。いつもの12キロメートルでは足りません。万博の外周道路を1周ではなく2周3周と周回することで距離を稼ぎます。外周の距離は、ちょうど5キロメートル。計算もしやすかった。

 

 100キロマラソンは完走できました。たしか1000人ほどのエントリーで完走者は300人ほど。制限時間は13時間30分。この時は、先輩がゴールまで僕を応援してくれました。その支えなしではゴールは出来なかったと思います。ありがとうございました。僕のタイムは、13時間29分なので何とかギリギリでのゴールでした。非常に思い出深い体験になります。このウルトラマラソンで僕は自分の限界を超えまくっていたので、あの時に僕は一度死んだんだと、今でも思っています。それくらいに過酷なレースでした。

 

 そうしたマラソン生活も、コロナの到来で大会が開催されなくなり、僕は走らなくなりました。何度か走ろうと挑戦したことはありましたが、一度衰えた足はとても故障しやすくなっていたのです。年齢もありますが、それ以上に足の周りの筋肉が衰えたことで、僕の足は故障した膝を支えることが出来なくなっていました。今は、サポーターをがっちり巻いて、無理をせず走っています。走り終えたら、風呂場で膝に向かって冷水のシャワーをかけて炎症を抑えるようにしています。今回も、膝は痛くありません。次も走れそうです。週に1回くらいは、12キロメートルを走りたい。今は、走れていることがただただ嬉しいです。