日本の長い歴史の中で、配下に暗殺された唯一の天皇がいました。崇峻天皇といいます。崇峻天皇の母親は小姉君といって、蘇我馬子の姉になります。一説には、馬子の叔母という記述もあるそうですが、蘇我一族であることは間違いありません。また崇峻天皇のお姉さんは、聖徳太子のお母さんである穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)になります。蘇我の血を引く天皇は、第31代用明天皇に続き二人目で蘇我馬子の権威を更に高めました。

 

 崇峻天皇暗殺の実行犯は、東漢駒(やまとのあやのこま)と言います。崇峻天皇の寝室に押し込み、剣でもって切り殺しました。その時、天皇の妃であった河上娘(かわかみのいらつめ)を奪い去り、自分の妻にしたとされています。東漢駒は、渡来系氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)の人間で、蘇我馬子の配下でもありました。河上娘が馬子の娘でもあったことから、下手人である東漢駒は馬子によって殺されてしまいます。

 

 このような状況証拠から、崇峻天皇を殺した黒幕は蘇我馬子であり、口封じのために東漢駒は殺されたというのが通説になっています。この暗殺事件の切っ掛けになったのが、崇峻天皇の迂闊な言葉でした。暗殺される一ヶ月前のこと、天皇のもとに猪が送られてきます。その猪を見た崇峻天皇は次のように述べました。

 

「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」

 

 この時、傍に聖徳太子がいたそうです。驚いた太子はその場にいた者たちに、「今の天皇の言葉をほかに漏らしてはいけない」と口止めをしました。しかし、この天皇の言葉を蘇我馬子に告げた者がいます。なんと、崇峻天皇の皇后である大伴小手子(おおとものこてこ)でした。夫である崇峻天皇の立場が悪くなる告げ口を、皇后はなぜしたのでしょうか。しかも、小手子は蘇我馬子の娘ではなく大伴の娘なのです。

 

 例えば、結婚した娘が家庭生活の不満を自分の父親に零す行為は、心情的に理解できます。「旦那は休みの日は寝てばっかり。少しは家事を手伝ってよね」身内相手だと愚痴も言いやすい。しかし、そうした愚痴を他人に言うとなると、言える相手と言えない相手がいます。小手子の告げ口は、他人ではありませんが旦那に強い影響力を持つ叔父でした。これは覚悟が必要になります。自分の旦那を懲らしめてくれという強い意志があるからです。

 

 小手子は、どのようなつもりで蘇我馬子に告げ口をしたのでしょうか。一説には、天皇の愛情が妃である河上娘に移ったことによる嫉妬とされています。天皇は跡継ぎを残すことも仕事なので、正妻である皇后だけではなく宮中には複数の妃がいました。そうした皇后と妃たちによる確執はあったと思います。もしかすると天皇の愛情が、小手子から河上娘に移っていたのかもしれません。しかし、河上娘は蘇我馬子の娘になります。いくら嫉妬が原因とはいえ、その不満をライバルである妃のお父さんにぶつけるでしょうか。小手子は皇后なのでプライドがあります。単純に嫉妬で片づけるのは難しいでしょう。

 

 梅原猛氏は著作「聖徳太子」の中で、布津姫の存在が小手子の嫉妬心を煽ったのではないだろうかと推察しています。布津姫も崇峻天皇の妃でしたが、丁未の乱で敗れた物部一族の娘なのです。ただ、この記述は日本書紀にはありません。先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)に記されています。もし天皇の愛情が布津姫に移っていたのなら、先ほどとは話が違います。皇后の小手子が旦那を懲らしめてやるために、馬子にそれとなしに告げ口をしたのかもしれません。しかしこの告げ口は、蘇我馬子からすれば強い意味を持ちました。自分に対して天皇が殺意を抱いていたからです。この布津姫を絡めた崇峻天皇暗殺の流れは、山岸凉子の漫画「日出処の天子」で表現されていました。

 

 ところで、蘇我馬子と崇峻天皇の関係になぜ亀裂が入ってしまったのでしょうか。考えられる原因は、多岐にわたります。蘇我馬子は、天皇家の外戚という立場を利用して権力を手中に収めていました。だから、娘の河上娘を崇峻天皇の妃にします。しかし、二人の間には子供が出来なかった。というか愛されていなかったかもしれません。対して、天皇と小手子との間には蜂子皇子(はちのこのおうじ)が誕生しています。蘇我の血を引かない皇子の存在は、将来的に蘇我一族の権力的基盤を脅かす存在でした。蘇我馬子からすれば、崇峻天皇のそうした行動が許せなかったのかもしれません。崇峻天皇が暗殺された後、蜂子皇子は聖徳太子に匿われて丹後半島に逃がされます。そこから、船を使い山形県鶴岡にたどり着きました。山形の羽黒山では、蜂子皇子が能除仙(のうじょせん)という法師として活躍したという伝承が今も残されています。

 

 関係悪化の原因として、仏教に対する姿勢も指摘されています。暗殺された前年に、日本初のお寺の建設が始まりました。それが法興寺になります。このお寺は、元興寺とも飛鳥寺とも呼ばれています。蘇我馬子にとって法興寺の建立は、新しい国家を築くためのデモンストレーションでした。これまでのヤマト王権を刷新して、大陸由来の仏教を基軸とした国家体制を皆に知らしめる必要があったからです。また、この法興寺の建立のために、朝鮮半島の百済から僧と建築技師を招きました。木造建築は、日本にはなかった技術になります。つまり仏教の導入は、経典だけでなく大陸由来の先端技術の輸入という副次的な効果が大きかった。そのような国家的な一大イベントに、崇峻天皇が関与した記述がないのです。憶測になりますが、崇峻天皇は仏教の受容に前向きではなかったかもしれません。

 

 そうした崇峻天皇はただのお飾りだったのかというと、違います。当時の大和王権には第29代欽明天皇からつづく悲願がありました。任那復興になります。朝鮮半島の歴史観では反対されていますが、日本書紀によると朝鮮半島の南に大和王権が実行支配する任那があったとされています。その任那が、第26代継体天皇の御代に失いました。欽明天皇の息子である崇峻天皇は、暗殺される前年に悲願を達成させるために行動を起こします。二万の兵士を編成し筑紫に向かわせました。しかし、いくら父親の悲願とはいえこの軍事行動は大和王権内で理解されなかった節があります。

 

 当時の国際情勢で最も大きなトピックは隋の中国統一でした。隋の文帝は高句麗を威圧し南下の姿勢を見せています。そうした国際情勢を全く無視した軍事行動に対して、蘇我馬子は反感を持っていたのかもしれません。蘇我馬子の政治的な強みは、朝鮮半島の三国である高句麗、百済、新羅との外交的パイプでした。先ほど紹介した法興寺の建立には百済からの援助を受けています。それだけでなく、善信尼をはじめとする三人の尼僧を百済に修行に行かせていました。また後の話になりますが、高句麗から迎えた僧侶慧慈は聖徳太子の師匠になります。このように蘇我馬子の朝鮮半島に対する姿勢は、対立よりも友好的な関係構築を目指していました。崇峻天皇の外交政策とは真逆になります。

 

 暗殺された崇峻天皇ですが、殺されたその日のうちに倉梯岡陵(くらはしのをかのみささぎ)に埋納されました。これは異例なことになります。通常であれば、天皇が崩御されると殯宮(もがりのみや)を築造して数か月は遺体を安置して葬送儀礼を行いました。別れを惜しみ霊魂を慰めるのです。しかし、崇峻天皇はそうした手順が踏まれませんでした。蘇我馬子が暗殺の痕跡を隠すために慌てて埋納したと考えることができますが、僕は違うような気がするのです。痕跡は隠したかったでしょう。でも慌ててはいなかった。そもそも策略家の蘇我馬子がそんな杜撰な行動をとるとは考えられません。

 

 崇峻天皇の猪から始まる迂闊な一言があってから、暗殺されるまでに一か月の猶予がありました。つまり、思い付きの行動ではなく計画された行動だと考えることが出来ます。また、そのころ筑紫には、二万の兵士を従える紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)、巨勢猿臣(こせのさるおみ)、大伴囓連(おおとものくいむらじ)、葛城烏奈良臣(かずらきのおなら)の4人の将軍がいるのですが、馬子は手紙を送っています。

 

「内乱によって、外事を怠ってはならぬ」

 

 はっきりと内乱と述べています。その後、蘇我馬子が糾弾されることはなく、翌年に推古天皇が即位されました。つまり、蘇我馬子を中心として粛々とクーデターが行われたと考えることが出来ます。江戸時代の歴史家は、蘇我馬子を反逆の徒として糾弾しました。日本書紀も蘇我馬子を悪者にしています。確かに、大和王権のトップを暗殺するという行為は反逆の何物でもありません。しかし、その目的が日本の平和を目的としていたのなら、蘇我馬子に対する認識も考える余地があるように思えます。

 

 当時のヤマト王権の大王は兄弟継承が通例でした。配下である豪族たちの信頼が厚い、尊敬される大王が求められます。崇峻天皇が暗殺されたたことで、欽明天皇の子供たちで王位継承権がある男子が居なくなりました。次の世代は、聖徳太子をはじめとして、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、竹田皇子(たけだのみこ)がいましたが、彼らは若い。まだ10代なのです。結果的に、女性初の天皇である推古天皇が誕生することになりました。推古天皇の御代は、彼女一人の実績ではないにしても日本の基礎を作り上げます。在位も35年間と非常に長い。まだ、推古天皇について勉強は出来ていませんがとても魅力的な人物になります。

 

 ただ、女性天皇を考えるとき、用明天皇の皇后であった穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)も候補でした。同じ立ち位置でありながら、蘇我馬子とはそりが合わなかった節がある穴穂部間人皇女の存在は、推古天皇と対比させるとかなり面白だろうと考えています。共に美しい方だったと思いますが、勝ち気で気の強い推古天皇に対して、夢見がちで情に絆され易いイメージを穴穂部間人皇女に感じています。彼女は、旦那である用明天皇と別の妃との間に生まれた田目皇子(ためのみこ)と、結婚して子供を産んでいます。当時の結婚観が現代と違うとはいえ、義理でも息子と結婚する話はなかなかないでしょう。大和王権の摂政にまでなった聖徳太子は、母親の行動にいつも悩まされていたのではないでしょうか。僕の勝手な想像ですが……。