書こうか書くまいか迷ったのですが、漫画家の芦原妃名子さんの件について僕なりの所感を述べたいと思います。ここ最近、世間をにぎわしている問題なので、皆さんもご存じのことでしょう。経緯について簡単に振り返ってみます。

 

 彼女の人気漫画「セクシー田中さん」が、日テレでドラマ化されました。ドラマ化を巡っては、原作者である芦原妃名子さんと日テレの間に次のような取り決めが為されていました。

 

「必ず漫画に忠実に描き、忠実でない場合は芦原さんが加筆修正する」

 

 ドラマ化の条件は、原作に忠実に作成することでした。ところが、その要望が聞き入れられないまま、全10話の内の8話までが脚本家によって改変された形でドラマ化されました。このことで原作者とドラマ制作側とで対立が起こります。結果として、残りの9話と10話は、原作者が脚本を書くことになりました。12月24日にドラマの最終回が放送されると、脚本家の相沢友子さんが次のようなコメントを残します。

 

「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」

 

 具体的な経緯は分かりませんが、脚本家にも言い分があります。追いかけるようにして、28日にも相沢さんは次のようなコメントを残しました。

 

「私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように」

 

 脚本家としての苦渋が読み取れる内容です。そのようなトラブルを抱えたままドラマが終了するのですが、この問題はさらに発展します。1月28日に原作者である芦原妃名子さんがコメントを残しました。

 

「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」

 

 翌日の29日に、芦原妃名子さんの死亡が確認されるのです。何とも痛ましい出来事で言葉がありません。ご冥福をお祈りします。僕は小説を書いておりますが、誰かに評価されような作品はまだありません。業界の末席にも座れない立場なのですが、今回のことを俯瞰してみたいと思います。

 

 世間で語られる記事の多くは、原作者と脚本家の対立に注目しているようです。脚本家は、原作者に対するリスペクトがないと攻撃されています。過去から、漫画や小説の実写化には多くのトラブルがありました。作品の題名は同じなのに、原作にはないエピソードが追加されるのはマシな方で、主人公の性別が変わったり、結末が変わったりすることもあります。更には、題名だけが同じで中身は別物という改編どころの騒ぎではないこともありました。このことを業界では「原作レイプ」というそうです。

 

 このような事態の中で、火に油を注ぐような出来事がありました。芦原妃名子さんが亡くなったその日に、脚本家が組織する「日本シナリオ作家協会」が脚本家サイドによる対談を行い、「【密談.特別編】緊急対談:原作者と脚本家はどう共存できるのか編」という題名でYouTubeにアップしたのです。この内容が物議を醸しだし、慌てた協会は動画をすぐさま削除しました。その杜撰すぎる対応に、脚本家は更に敵視されネット上で炎上するのです。対談で述べられた言葉を拾い上げてみます。

 

「最近の原作者はこだわりが強いんですよね」

「私は原作者とは会いたくない派。私が大切なのは原作であって、原作者の方はあまり関係ないかな」

 

 これらのコメントからは、原作者に対するリスペクトが感じられません。炎上するのも頷けます。ここで、脚本家という仕事について考えてみたいと思います。脚本家は、舞台や映像化をする時に、役者のセリフや動作、更には舞台装置の様子などをシナリオとしてまとめるのが仕事になります。題材は、小説や漫画といった原作が使用されることが多い。原作のボリュームを舞台なり映像にする場合、尺の問題やストーリーを分かりやすくするために、内容の改編が行われます。また、原作のままでは役者は演じることが出来ないので、役者の立場に寄り添って台詞を用意します。テキストなり二次元で創られた世界観を、三次元で表現するための翻訳作業。これが脚本家の仕事だと思います。

 

 翻訳作業が、原作の世界観を忠実に表現できていれば何も問題はありません。荒木飛呂彦さんの漫画「岸部露伴は動かない」は、高橋一生の演技で映像化されました。クオリティーが高く評判が良かったことは記憶に新しい。原作の世界観を忠実に表現した方が、視聴者からの評判が高くなる良い実例だと思います。

 

 他にも原作レイプに抗う形で、原作者が実写化に関わる事例も見られます。漫画ワンピースは、ネットフリックスで映像化されました。原作者の尾田栄一郎が制作に関わったことで成功を収めます。他にもアニメ映画ですが、「THE FIRST SLAM DUNK」は、原作者である井上雄彦自らが監督と脚本を務めることで成功に導きました。

 

 これらの事例で分かることは、視聴者は原作者の熱い思いを求めている。それなのに、なぜ改変が行われてしまうのか……です。先程の脚本家の対談の中で、「原作まんまやるつもりがないならオリジナルでやれよ」というポストに対するコメントがありました。脚本家が答えます。

 

「脚本家全員がオリジナルでやりたいと思っている。ただ多くの問題点があって実現することは不可能に近い…」

 

 脚本家も創作がしたい。オリジナルの作品を生み出したいのです。それが出来ないのは、ビジネス的に成功するかどうか分からない作品にお金を出すスポンサーが居ないからです。ヒットした作品というのは、視聴者に受け入れられる土壌が既に整っています。スポンサーとしては、安全な投資先になるわけです。特に、日本の漫画は海外的にも評価が高く、アニメ化や実写化で成功した事例が多い。ヒット作をもたない脚本家の声など、スポンサーには届かないのです。

 

 では、脚本家が原作をたたき台にして自身のオリジナリティを表現しているのかというと、それは少し考える必要があります。脚本家がシナリオを仕上げるので、原作は脚本家よりの色に染まります。しかし、その改編の方向性は、脚本家の意見だけで行われているわけではない。映像化は、商業的な活動になります。スポンサーだけでなく、出版社やテレビ局、撮影スタッフやタレント事務所、それに事務所に登録されている役者等、多くの人々が制作に関わります。ヒットした原作は金の生る木です。それぞれの立場から、より利益を最大化させるために主張をするでしょう。スポンサーはCM効果を狙いますし、出版社は増刷を期待します。テレビ局は視聴率が気になるし、タレント事務所はお抱えのタレントが登場しないと利益にならない。そうした意見をプロデューサーが調整して、脚本家に指示をします。脚本家は、プロデューサーが納得するシナリオを用意しなければなりません。つまり、今回の問題は原作者と脚本家という単純な対立ではなく、構造的な問題だと考えます。それは、現代版の封建社会。絶対的な権力を持つ資本家たちと、搾取される原作者という構図です。

 

 解決策として、原作者の権利を守るということは今後考えていく必要はあります。ただ、気になるのは、原作者をリスペクトし過ぎてしまうのは、それはそれで問題があるだろうと思うのです。映像化は、言うなれば脚本家による二次創作です。日本の漫画が高度に成熟したのは、二次創作という文化的背景が後押ししたことは見逃せない。漫画やアニメのコミケ文化や、音楽の世界でのカバー曲など、作品に対する自由な解釈は、新たなファンを生み出す原動力にもなりました。結果的に原作の価値を高めることもあるのです。

 

 ――誰が悪いのか?
 

 今回の悲劇は、誰かを犯人に仕立て上げて解決するような問題ではありません。あまりにも白熱する様子は、魔女狩りや村八分を思い出させます。部外者である人々の、あまりにも無責任な声が大きすぎます。考えるべきは、再発の防止なのです。原作を元にした映像化に際しては、口約束だけではいけません。第三者を交えた契約を、正式に交わす必要があります。また、脚本家は原作者と意見を交わさなければいけない。そんな当たり前のことが、なされていなかったことが驚きです。作品は、原作者のものです。作品からは読み取れなかった原作者の想いを汲み取ろうとする熱意くらいは、脚本家だけでなく、制作サイドにも見せて欲しい。脚本家と原作者が思いを交わすことができれば、素敵な作品が生まれると思います。