真っ暗な山の中、山道が下っていく。かなり急だった。その急な坂道を落ちるようにして下っていく。ワカンのヒールを使って、雪を塊にして踏みしめた。体勢を維持するためにストックを上手く使う。ワカンでの歩行に慣れてきた。かなり調子が良い。しかし、こんな時は要注意だ。落とし穴が待っていたりする。上手く降りているはずだった。ところが、木の根っ子か何かにワカンが引っかかった。足とストックが絡まる。そのままゴロンとひっくり返った。

 

 気がつくとスノーモンスターを下から見上げていた。ヘッドライトの白い光がスノーモンスターを下から照らすことで、モンスターがお化けのように見える。ザックを下にして、僕は亀が仰向けになったように倒れていた。手足をバタつかせたいが、腕と足とストックが背中の下で妙に絡まっている。ストックの持ち手に付いている輪っかに手首を通しているので、腕が上手く抜けない。雪は深く、15kgのザックの重みで起き上がれない。まさかこんな体勢になるとは思ってもみなかった。

 

 足を踏みしめようとすると、足が沈んだ。手を使って起き上がろうとすると、その手も沈んだ。亀が仰向けになった気持ちがよく分かる。そんな自分を客観的に見て面白いと思った。ただ面白がっている場合ではない。何とか腕を抜いて、ゴロンとひっくり返り、うつ伏せになる。15kgのザックが僕を押しつぶした。顔面を雪に擦り付けてしまう。メガネに雪が付着した。前がよく見えない。ストックを雪の中に深く指して、そのストックを手がかりにして、何とか起き上がった。全身雪だらけ。ストックの片一方は、僕の重みで少し曲がってしまう。膝を使って、曲がりを少し直した。やれやれ、一寸先は闇とは、よく言ったもんだ。ワカンでの歩行は、もう少し気をつけることにする。

 

 耳を済ますと、小川のせせらぎが聞こえた。弥山川だ。嬉しくなって、歩みを早める。この場所は3ヶ月前にも歩いた道。弥山川に架かる吊橋に辿り着いた。吊橋の入口の横には、門番のようにスノーモンスターが立っている。両手を広げて、通せんぼをしていた。その手を躱して、吊橋を渡る。吊橋の上にも雪が積もっていた。少し危ない。この足下に弥山川が流れているはずだが、闇に沈んでいてよく見えない。せせらぎの音だけが、その存在を示していた。吊橋を渡りきり、少し歩く。やっと狼平避難小屋に到着した。丸太でできた立派なログハウスだった。ここがアルプスと言われれば、そうかもしれないと思わず勘違いしそうになる。小屋に近づきそのドアを引いた。開かない。

 

 ――?

 

 試しに押してみると素直に開いた。外は雪が積もっている。日本のドアの多くは引いて開けるが、それだと雪が邪魔で開けることが出来ない。山小屋なりの工夫に少し感心した。

 

 先客がいるかも知れないと思っていたが、誰も居なかった。小屋の中には土間があり、上がり框と部屋が一体になっていて一段高くなっている。その高さが丁度よい。ザックを背中から下ろして、僕も腰を下ろした。これまでの疲れが一気に押し寄せてくる。出来ることならこのまま寝転んでしまいたいが、そうはいかない。一晩過ごすための準備を始める必要があった。

 

 まずは、ワカンとアイゼンを登山靴から取り外す。そして登山靴を脱いだ。ザックの中からホッカイロを取り出して、足の甲に貼り付ける。そうしておいてテントシューズを履いた。僕のテントシューズはホームセンターの安物なので、防寒性能は皆無。これくらいしないと寒いのだ。

 

 次に、部屋の中にわざわざテントを設置した。山小屋があるのでテントを持ってくる必要性はないように思えるかもしれない。しかし、今回は小屋にたどり着けたから良いものの、たどり着くことが出来なかったら雪山の中でビバーグしなければならないのだ。テントがなければ確実に死んでしまう。

 

 現に3ヶ月前の僕は、双門コースを辿ってこの狼平避難小屋を目指していた。しかし、実力不足で弥山川の渓谷で夜を迎えることになる。岩屋を見つけてテント無しでビバーグをしたのだ。そうした経験があったので、使う使わないは別にして、テントの携帯は必須だった。

 

 ――でも小屋があるのだから、使わなくても。

 

 それも一理ある。ただ、テントという閉ざされた空間は、寝るときに安心感を与えてくれた。それに、防御壁が布一枚であっても、僕の体温がテント内に留まることによって、幾分は寒さを和らげる効果もある。小屋に僕一人なら、最初っからテントを設置するつもりでいたのだ。

 

 ただ、そうした理由とは別にテントを張らなければならない現実的な問題に、実は直面していた。僕の眼の前にネズミがいるのだ。僕のアイゼンの上に後ろ足で立ち上がって、鼻をヒクヒクと鳴らしている。大きくはない。よく見ると可愛い。しかし、ネズミが徘徊する小屋の中で、直に寝るというのはかなり抵抗があった。

 

 そんなネズミを他所にして、次に食事の準備を始める。メニューは味噌鍋。白菜、ヒラタケ、白ネギは事前にカットしてジップロックに入れてきた。豚肉とソーセージもジップロック。そうした具材とは別に、味付けとしてほんだしを練り込んだ味噌をラップで小さく包んできた。コッヘルに水を入れて、それらを一緒に煮込む。

 

 熱源のガスストーブは、30年来の付き合いの骨董品だがまだまだ現役。ガスカートリッジ式なのだが、氷点下での使用ではカートリッジの種類に注意しなければならない。通常のカートリッジは、氷点下ではガスが気化しないので火が着かない。寒冷地用のカートリッジを使用しなければならないのだ。それでも使い続けると、カートリッジそのものが気化熱で冷やされていく。結果、火力が弱くなる。まぁ、そんな蘊蓄はともかくとして、今は酒が飲みたい。ところが、一つだけ強く後悔することがあった。

 

 ――ビールも持ってくればよかった!

 

 頭の隅にはあったのに、持ってくるのを忘れてしまった。日本酒とウィスキーはある。でも、こんな極寒の環境でも、最初の一杯はビールを口にしたかった。残念。

 

 味噌鍋が出来た。箸で白菜をつまみ口に運ぶ。味付けが少し弱い。醤油を足して、更に日本酒も入れた。味が濃くなる。鍋といえば白菜。白菜が美味い。ヒラタケも美味い。豚肉も何もかもが美味い。極寒の環境なので、暖かければ何でも美味い。それらを口にしながら、ペットボトルに入れてきた日本酒を飲む。これも美味い。ただ欲を言えば、この日本酒を熱燗にしたい。装備が増えるので、現実的ではないが……。

 

 視線を横に向けると、相変わらずネズミがいた。鍋の匂いに誘われて、腹を空かせているのかもしれない。可哀想だが、この鍋は僕のものだ。腹が減っていたこともあるが、ペロリと食べてしまった。日本酒も飲みきってしまった。500mlでは全然足りない。

 

 汁だけになった鍋の中に、今度はソーセージの香燻を入れた。少し上等なソーセージ。グツグツと煮込みながら、ウィスキーを入れたスキットルを手に取る。蓋を開けて口に含んだ。パンチの効いた燻されたアルコールが、僕の口の中を焼く。美味い。ソーセージも口にした。かなり美味い。目を瞑って、口の中の饗宴を楽しむ。実は、カマンベールチーズも持ってきていた。それも口にする。ウィスキーとのマリアージュが最高。美味すぎる。独りだけの山小屋での晩餐を楽しんだ。

 

 ――寂しくないんですか?

 

 全然寂しくない。美味いものに舌鼓を打ちながら酒を飲むことは、僕の毎日の楽しみ。酒を飲みながら、今日という一日を振り返った。良かった日もあれば、後悔する日もある。どのようなドラマであっても、文章の最後にピリオドを打つように、僕は酒を飲んで締めくくった。それで良い。

 

 一日の終りとは、小さな死だと考えている。僕は毎晩毎晩、死んでいる。そして次の日には、目が覚める。自分が本当に死ぬときも、そうでありたい。当たり前のように死んでいく。酔っ払いながら、そんなことを考えている。自分の人生を味わっている。