寝落ちした。
デイリーダース、今回は「フリー」スタイル。
自由というものについて考えてみました。
ちなみに高須院長に触れてますが。
あの人はもう年齢からしてアップデートは無理だろうから引退して公の場で発言しないでいればそれでもう良いと思ってます。
長年周りの友人や知人が何も言ってあげられなかった例なのかも知れませんね。大勢いただろうに….
ただ、支持する人には気持ち悪さを感じます。
威勢が良いから? 面白いから?
で、にっくき(これも変な話ですが)有田議員とのバトルの為なら
ナチス礼賛発言もあり?
それともそもそも無自覚ですか?
気持ち悪いなー。
でも、無自覚であるならこちらの本はいかがでしょうか?
まあ、せめてこの本の内容くらい踏まえた上で考えると良いのかな?
さて。
昨日のトークで「自由」についての話になって。
荏開津さんが「ヒップホップは自由だ」という言説を書き手があまりにも利用しすぎたのでは?
という発言をされて。
これはロックは自由だ!とかパンクは自由だ!とか・・・なんでも当てはまると思います。
僕も良く使うし。
でも「自由」が享受出来る前提があると思っています。
つまり自由が保障されている状況、システムなりルールが実は存在していないと「自由」な選択は出来ない。
システムやルールの安定があって自由は確保されるわけですが・・・そのシステムを逸脱する自由もあるか?という事も併せて考えます。
「ご自由にどうぞ!」と飲食店で例えば煮玉子が置いてあるのは、その玉子を好きな数だけ食べてもよいですという言外の設定があるんですが・・・
この範囲を取り外して、。ただ「ご自由に」と言われた・・・例えば飲食店の壁を壊す自由はあるのか?とか、もうちょいスケールさげて全部の玉子を床にぶちまける自由はあるのか?
と考えると・・・この「自由」は実はかなり限定されています。
水泳の自由形ではクロールを選択する選手が多いですが、ここには水から上がってバイクで走り出す!という自由ははいっていません。
ラウンジとかで「自由におくつろぎください」と書いてあって・・・ラウンジの椅子を持ち上げて窓に投げつける自由はあるのか?と、まあ同じ話を延々続けることも出来ますが。
論理の飛躍だ!
と言うなら。
じゃあ、どこから飛んだの?と考える。
その飛んだ場所が「自由」が保証される境界線という事だと思います。
社会において個人の自由が保障されている状況も。
権力が自由に個人のプライバシーにヅカヅカ侵害して来ない設定で守られています。
日本の報道の自由度のランキングが話題に上りますが。
この設定の内側にいる僕らには分からない。
日本の自由度は低いとされていますが、これは記者クラブ制度や大手メディアの構造の中で行われている報道を設定の外から見たときの評価になりますよね。
逆説的に言えば、あからさまな発言や行動への検閲が目に見えてない限り、中にいる限り自由だと感じてしまう。
なので、問題となるのは。
この前提、設定を設計したのは誰で。それはどういう考え方に基づいているのか?を考える必要があるということです。
外側からの視点を持つ。
で、同時にこの前提、設定を共有する範囲がコミュニティーだったり、カルチャーだったりすると思います。
「ヒップホップは自由だ」という発言の中には。
その自由の前提、「ヒップホップ」というものの一定程度の共有がないと本来の会話は成立しない。
新潟の自民党県連の人の話がずれたまま進行するのは・・・
この前提の共有がなされていないまま、ヒップホップは自由だとかラーメンだ、って話が出てきちゃうからだと思います。
これは僕のMCバトルの本でも書いたことなんですが。
かつては。
ある程度までは「ヒップホップ」に関する書き手と読み手が共通する前提を持ち得ていたと思います。
その中で・・・洗濯も食器洗いもヒップホップ、という会話が成立すると思うんですが。
現在はそうでもない。そうでもないことに気づかずに同じ言葉使いをしてしまっている僕らも反省が必要ですが・・・
自分がどういう前提に基づいて話しているのか?
を鮮明にしないと会話が成立しなくなっている場面が多いと感じました。
で、前提を共有しない人との会話には翻訳が必要です。
翻訳するためには原義を分からないといけない。
と。
そんな思考をしていた次第ですが。
自由から脱線した話になりましたが・・・
例えば。
表現の自由という大きな話。
その前提条件には「その自由を阻害する」ものは含まれていない。
で、そこが共有出来ていない人が最近多いのかな?とも。
ううむ。
考えは続きますね。
しかし…威勢の良い差別主義者はヒップホップという前提からは一番唾棄すべき存在だと思います!
こんな世界でも…
宇宙平和