マッカーシーの死を悼む | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

🔳早川書房「作家コーマック・マッカーシー逝去のお知らせ」

 

 

 

これは痛い。いかに高齢であったとはいえ。

 

一般に、善を表すのには2つのパターンがある。

 

1、善を善として正面から捉え、力で押すもの

2、悪を描き闇を描くことで、逆に善(光)を照射するもの

 

音楽座ミュージカルや黒澤明『生きる』、山本周五郎の一連の作品が1。聖書なら、福音書にこの傾きが強い。

コーマック・マッカーシーは圧倒的に2のタイプ。そして自分は2に、より一層心惹かれる。

 

◆リドリー・スコット監督『悪の法則』(2013)

 

 

ある弁護士(マイケル・ファスベンダー)がフィアンセ(ペネロペ・クルス)との婚約に、高価なダイヤの指輪を求める。しかし彼はそれほど裕福ではない。

金が欲しくて弁護士は、友人の実業家ライナー(ハビエル・バルデム)から麻薬ブローカー、ウェストリー(ブラッド・ピット)を紹介してもらう。「軽い気持ちで麻薬ビジネスに手を突っ込むな」とウェストリー。それでも弁護士は手を染める。

メキシコ女ルース(ロージー・ペレス)から息子〝バイカー〝(リチャード・カブラル)の保釈を依頼された弁護士は、彼の釈放を勝ち取る。バイカーは麻薬の運び屋で、その後バイクでブツを運んで走行中、ライナーの恋人マルキナ(キャメロン・ディアス)が雇ったワイヤーマン(サム・スプルエル)の張ったワイヤーに首を引っ掛け切断死。

2,000万ドル相当のブツは行方不明に。怒った麻薬カルテルは、関係者全員を追い始める。

 

弁護士は、斯界に顔がきく〝有力者〝に泣きつく。が、

 

「俺にわかるのはあんたが自分のした間違いを何とかしようとしている世界はあんたが間違いをしてしまった世界とは別の世界だってことだ。あんたは今自分が十字路に立って進むべき道を選ぼうとしていると思っている。でも選ぶことなんかできない。受け入れるしかない。選択はとうの昔に為されたのだ」

 

アカデミー作品賞を獲った『ノーカントリー』では

 

 

運命論/宿命論の類とは違う何か。無論、因果応報でもない。例えば弁護士は麻薬ビジネスにちょっぴり触っただけであり、運び屋を殺していないしブツを奪ってもいないからだ。なのに命を狙われて、絶望の淵に立たされる。

敢えて言うなら神学的宿命論、いや決定論とでも言おうか。

 

人間には自由意志がある。右へ行っても構わないし左を選んでも構わない。罪を犯す自由、犯さない自由。選択肢はまず最初に用意されている。

アウグスティヌスが著書『神の国』に書いた〝最初の意志の自由〝である。

 

いっぽう、全能なる神は、彼がどちらを選ぶか予め知っている。多くの場合、神はそれでも彼の意志に関わろうとはしない。罪を犯さない方を望んでいたとしても、彼や彼女の意志に任せる。

罪を犯さないこととは即ち、罪に由来する苦痛からの解放= “最後の自由〝(アウグスティヌス)。最初の意志の自由(気まま)と最後の自由、人間にはこの2種類の自由があり、そんな人間との関係性をも網羅する神の全能性こそ決定論の決定論たる所以だろう。

 

かくなる世界で人間の選択は、一層際立つ。選択肢は常に用意されている。意志の自由は、いつだって最初に発揮できる。

そこで君は右の道を選んだのだ。後戻りはできない。取り消しは不可能だ。

あとはただ、受け入れるしかない。その結果を。ただただ神の恩寵を。

 

「人はよく計画も目的もない盲目の宿命ということをいう。だがそれはどういう種類の宿命なのか?

この世界での取り返しのきかないすべての行為にはそれ以前に別の行為がありその行為の前にまた別の行為がある。それは広大無辺の網目を成している。人はそれらの行為を前にして選択ができると思っている。しかし選択の自由は与えられたものの範囲でしか行使できない。選択は幾世代の迷路のなかで失われるしこの迷路のなかで為される行為はどれもそれ自体が何かに隷属する行為だ。

というのもひとつの行為はほかの全ての選択肢を無効にしひとつの人生を形作っている諸々の拘束に人をより一層強くつなぎ止めるからだ」

 

「人間が立てる計画は未知の未来に基礎を置いている。世界は人々がいま現在の問題を取捨選択することで時々刻々形作られていくのであり、我々はそれがどういう形かを理解しようとするが理解する方法などない。我々にはただ神の定めた掟があるだけでありその掟に従う意志のある者がそうする知恵を持つだけのことだ」

 

(『平原の町』)

 

概ねコーマック・マッカーシーの作品には救いがなく、厳しい。暴力に満ち、一見ニーチェ的でもある。

 

「戦争とは予言のいちばん確かな形だ。戦争は一方の意志を試しまた他方の意志を試すがそれらを試すより大きな意志は二つの意志を結び合わせるがゆえに選択を強いられる。

戦争が究極の遊戯だというのは要するに存在の統合を強いるものだからだ。戦争は神だ」

 

(『ブラッド・メリディアン』)

 

 

ただ、だからこそ浮き上がってくるものがある。彼が好んで選ぶ舞台は米墨国境の荒野。〝荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」〝 ー マルコによる福音書・1章3節

コーマック・マッカーシーとは、文学におけるバプテスマのヨハネではなかったか。

というのも、

 

「人間には何でも望むものを喚び起こす力があると思うか? 目覚めているときであれ眠っているときであれひとつの世界を喚び起こす力があると思うか? その世界を息づかせそこへ鏡に映ったり太陽に照らし出されたりする形象を置くことができるか? 自分の喜びや絶望でそれらの形象を動かすことができるか?

人間はそんなふうに自分自身から隠れることができるのか? できるとして誰が隠れるのか? 誰から隠れるのか?

 

人間が心に喚び起こせるのは神が創った世界でありその世界だけだ。人がしごく大事にする人生ってやつも、どう理屈をつけようと自分で創り出すものじゃない。その形は原初の空無のなかで否応なく押しつけられたのであってそれ以外の形もあったかもしれないという議論はすべて無意味だ。

なぜならそれ以外の形など存在しないからだ。それ以外の形なるものはどういう素材で作られ得るというのか? どこに隠れ得るというのか? 現にあるものは百パーセントの確率でそのような形になった。あらかじめこの形になるとわれわれに予測できなくてもその確実さは変わらない。

人は現実とは違う物語をいろいろ想像できるかもしれないがそんなことはまったく無意味なんだ」

 

さらには

 

「人間が死ぬのはいつでも他人の代わりに死ぬ。そして死は誰にもおとずれるものだから死への恐怖が減るのは自分の代わりに死んでくれた人を愛するときだけだ。我々はその人の歴史が書かれるのを待っているわけじゃない。その人はずっと前にここを通り過ぎていった」

 

「その人はすべての人間であり、我々の代わりに裁きにかけられたが、我々の時がきたら我々はその人のために立たなければならない。

あんたはあの人を愛しているか? あんたはあの人がとった道に敬意を覚えるか? あんたはあの人の物語に耳を傾ける気があるか?」

 

ー『平原の町』

 

人間の選択と心の闇を通じて逆に光を表す。真正面から描きはしなかったが、立ち上ってくるのは神である。

その道の、彼は先行者だったのかも知れない。

 

長命を保ったならば、氏はノーベル文学賞間違いなしだったと思う。心より逝去を悼む。