テキストと音と | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

「なんでもアリは、なんにもないのと大差ない。2010年代は、ユーチューブという名の体制の巨大化とSNSの驚異的な浸透によって視覚の優位性が上昇、それと並走するように〝多様性〝もまた称揚されていった時代なわけだが、10年代初頭に登場してきたエレクトロニック・ミュージックのプロデューサー、さまざまなスタイルをスマートに折衷するSeihoはそのような現代を先取りする・・・はずだった。

しかしあらためて考えてみると、その音楽から〝なんでもアリ〝は感じられない。おそらく彼は〈なにをやらないか〉をわきまえている」

 

ー Seihoインタビュー 『ele - king』2021年27号

 

 

◆Shake

 

 

Seiho: 

「たとえば近年のシティ・ポップの盛り上がりを見てて思うのは、あれは日本のカルチャーじゃないですよね。なのにあたかも日本独自のカルチャーのような顔をしている。その点まだ日本のヒップホップはよくて、自分たちが欧米の真似にすぎないってわかってるところは好感を持てます」

 

「ぼくらがクラブミュージックをやってるのもそうですけど、そもそも日本のオリジナルの音楽がないことをどう考えるべきか、ってのはよく考えますね。オリジナルと複製の関係、複製が持つオリジナリティみたいなこと。逆に言うと、日本のラッパーでもその葛藤がないラッパーはあんまりおもしろみがない。このちっちゃい島で有名になってるけどオリジナルじゃないし、っていう葛藤」

 

◆Shanti

 

 

葛藤というかこの含羞は、同時に読んだ佐藤忠男『長谷川伸論』にも。

 

書き写すのが面倒になったから要旨を述べると、まずは個人と社会との関係軸。近松にせよ河竹黙阿弥にせよ、その心中ものは、所属する社会の厳しい掟に逆らうことで、恋が燃え上がる。

いっぽうドストエフスキー『罪と罰』にせよスタンバーグ監督の映画『紐育の波止場』(1928)にせよ、そこに登場する男女が結ばれようが結ばれまいが、社会の方ではいっこうに関知しない。というのも、その登場人物は社会の秩序から完全にはみ出しているか、あるいは全く無視されている人間だからである。

秩序に反抗しようにも、どだい、秩序の方は、彼や彼女たちの反抗を正面から取り合ってくれない。

 

浄瑠璃や新派の舞台に出てくる男女と、『罪と罰』や『紐育の波止場』のそれは、階級的には同じである。それでもかくなる差が出てくるのは、それぞれが属する社会・あるいはドラマツルギーの違いに因を求めざるを得ない。

 

後者の場合、前者のようには恋に反対する周囲の人々に意地を張り、その意地が反射的に彼らの恋を高揚させるという「作用」に頼っているわけにはいかない。絶対的な自主独立、自覚をすることが求められる。

 

「その相手を愛することが、どうしても自分にとって必要なのだ」

 

という。

 

階級意識的には

 

「自分はつまらぬ人間であって、そんな至らぬ自分を愛してくれる相手は有難い」

 

こんな自覚が己自身のありようと相手からの愛との間に葛藤を産み、含羞につながる。

 

佐藤忠男は書く。

「すなわち、自分はつまらない人間であり相手を幸福にできる自信のない人間であるということを強く主張することをつうじて、逆説的に、自分がいかに良き伴侶を痛切に求める人間であるかを語るのである。それはまた、心ならずも流民と化している者が、自分の安住の場を心から求めるということの表現でもある」

 

ー 『スタンバーグ、チャップリン、ベルイマンと人情』(同書所収)

 

さらに論は日米の差へと展開するのだが、長くなるので別途。

 

◆Soul II Soul ー Get a Life

 

 

◆Courtney Blows

 

 

 

以上テキストと音楽。いずれも、Keep on Movin‘。