先日は日記の日でした | Roll of The Dice ー スパイスのブログ ー

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稀に・・・となるかも、ですが、音楽や演劇、書籍について書きたく思ひます。

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自分はエッセイといふのはあまり読まない。評論や小説を好む。
しかしいくつか例外はあって、その最たるものがこれ。
 

 

「彼は食堂の前の芝生に、一人でぽつんと立っていた。私は駆け寄った。

『黒澤さん!』

彼は私を見た。彼の顔には、あの人なつっこい笑顔はなく、ほとんど無表情に近い。とりつくしまもない、というのはああいう表情のことをいうのだろうか。私は彼の口が開くのを待った。三秒・・・四秒・・・、彼は一言も言わず、突然クルリと踵を返すと、私に背を見せて足早に立ち去っていった。

(中略)

しかし、ふしぎに、再び黒澤明に近づこうという気持ちはなくなっていった。生まれてはじめて見た、男の素顔、というか、あの能面のように硬い黒澤明の表情が恐ろしかったのかもしれない」

 

親しく、ほのかに恋していた黒澤明が突然冷淡になるのは、映画会社か養母の圧力があってのもの。にせよ落胆や失望を高峰さんはダイレクトに表さない。黒澤明と自身の描写を通じて、ー それはもはや素描と言ってもよいかもしれない ー 人の弱さ・冷淡さを表している。

そして「恐ろしかったのかもしれない」と自身を分析。黒澤の冷たさと、己の心。振ったもの振られたものという立場の違いを超えて、互いにリンクする心のありよう。

これは彼女の「冷めている」眼差しが、別れの場面をも斯く書かせたものだろう。

 

高峰秀子さんは養子にもらわれ稼ぐために5才で子役に。1924(大正13)年生まれだから昭和4年ごろのこと。

子役でスターになったものは総じて、大人になると大成しないと云われる。彼女は長じても日本映画を牽引する大女優であり続けた。

幼い頃から仕事に忙殺され、ほとんど学校へ行っていない。にも関わらず、名文の数々を残した。

相手も自分も社会をも、どこか突き放したような目線。「苦しい」とは決して書かぬがゆえに、高峰さんの苦しみが、こんな目線に表れる。

 

映画監督・脚本家の松山善三と結婚するまでの半生記は、自叙伝であると同時に戦前から戦後に至る、日本映画の記録でもある。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男、そして木下恵介。巨匠たちとの仕事ぶり。

 

◆二十四の瞳(1952)

 

 

この「松ちゃん」といふ少女こそ、我が祖母の若い時そのものだ。

『二十四の瞳』は稀代の反戦映画であるが、ことほど左様に文化芸術こそ日本社会の一断面を照射する。

 

で、ここまでが実は前振り。

 

金がなくなり新刊書を滅多に買わなく(買えなく)なった。数日前、仕事帰りにスーパー寄って、食物を買わむとするその刹那。

たまさか横切ったのがダイエー内の書店。新刊の棚をふと見ると、こんなものがありました。

 

 

文藝春秋から、これが文庫で出ておった。お値段1,540円(税込)。

1,540円かぁ。今の自分には大金である。まずは立ち読みしてから決めましょうと、索引開き、食いついたのが

 

「ドストエフスキー 『悪霊』について」

 

『悪霊』は、ご存知ドストエフスキー後期3部作の1つですね。『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』に至る中間の。

『罪と罰』の娼婦ソーニャは『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャ。すなわち霊的にイイ人。いっぽう ー あまりにむかし読んだから記憶が定かでないのだが ー 『悪霊』にはそんな人は出てこない。

ニコライ・スタヴローギンもキリーロフも、キャラこそ違えど真っ黒。自己に拘泥し、破滅する。

 

副題は確か『無神論』。

 

現実の革命未遂事件に材を採ったドストエフスキーは、本作で自己拡張と革命論、すなわち人間そのものと人間集団の限界、あるいは罪深さを描いた。

テイストは、ひたすら冷徹。後年起った世界初の社会主義革命=ロシア革命や、さらに50年後の連合赤軍日本赤軍をも予言しているかのような書である。

 

『悪霊』については小林秀雄をはじめとして、さまざまな知識人が論評している。吉満義彦の評は、もっぱらキリスト教から論じたのが特徴である。

 

自分はここのところ苦しみ、キリストの神に祈っていた。「わたしに平安をください」と。

聖書は言う。

 

「わたしは、あなたがたに平安を与えます。ただしわたしが与える平安は、世が与えるものとは全く違います。あなた方は心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません」

 

ー ヨハネによる福音書 14章27節

 

神が与える平安と、世が与える平安との違いとは何か。

前者は神との一体感である。唯一絶対の神、アルファでありオメガである方、モーセの十戒の時、こんな御業を示された方。

◆神の御業を見よ!

 

 

ファラオ(ユル・ブリナー)の軍勢が迫ってくるなか、イスラエルの民をエジプトから救出するというね。チャールトン・ヘストン主演の映画『十戒』(1956)より。

この顛末は旧約聖書にちゃんと書いてある。

 

いっぽう世が与える平安は、ただ単なる問題解決。いやそれで十分っちゃ十分なのだが、人間誰しもいったん問題解決したら、神を忘れ己を誇る。

キーラツ♪(ラッキー)ならまだマシ。「あれは俺がやったんだ」と、こうなる。

 

昨今流行りの自己責任論は、これの裏返し。成功しても失敗しても、全部君のせいでしょうと。

ところが実は違うんだよなあ。キリスト教を措いても、それは誰かが君の知らないところで、動いた結果なのである。

人は概ねそれが分からないから「たまたま」なんてことを言う。謙虚な人ですら、斯く捉える。

運命つーの?

 

ここで吉満義彦は問う。「スタヴローギンもキリーロフも、そんな感性で革命論を。ひいては自らを滅ぼしたんじゃね?」。

 

自分の社会主義共産主義に対する見地はいったん措きます。吉満氏が主張したのは、

 

「神すなわち絶対者を顧みずあるいは否定し、その一体感との中で物事を行わないから、そーゆーことになる」

 

ドストエフスキー自身、ロシア正教・東方教会のガチクリスチャンであった。彼が追い求めたのは〝ロシアの神〝。

※余談ながら、ウクライナvsロシア戦争も、こんな文脈で読み解くのも有効と思う。ドストエフスキーとは全然違うが、プーチンもロシア正教の一派・古儀式派ではある。

 

ロシアの神とはマッチョなる、地域限定の神ではない。ウクライナにも米国にも、キリストは日本にも共通の神である。

ロシアの神とはただ、ロシアの風土に生まれ育った例えばドストエフスキー(ゆえ)の表現。その伝で言うなら、ラテンアメリカにはラテンアメリカなりの主イエス理解があり、日本には日本なりのキリスト理解があるだろう。そこここの風土、与えられたところで生きる人々それぞれに。

八百万(やおよろず)の神・桜や紅葉に神を見いだす我が日本人の感性と、唯一絶対のキリストがどうコラボするか。これは日本クリスチャンにしかできない技かもしれない。

 

余談が過ぎました。

社会主義共産主義、革命とは、冷厳なる人間集団のいわば「典型」に過ぎない。唯物論は一定の真実を突いているが、それは社会構造・経済構造の分析にとどめるべきで、精神そのものが唯物論に陥ってしまったら事を誤る。

小林秀雄のデビュー作『様々なる意匠』も、その一点においてプロレタリア文学を揶揄し批判したのだと読み解くべきである。

 

ニコライ・スタヴローギン、あるいはキリーロフ・・・彼らが小林秀雄言うところの「自ら首吊りするその縄に、蝋を塗りつつ仮面のように」破滅したのは、革命思想云々では決してない。

絶対的理想であり、我々を愛して止まず、その一体感の中で平安を与えて下さる神から離れてしまったからだ。それこ作者ドストエフスキーの思想であり、読み解いた吉満義彦の思いでもある。

※トルストイと違うのは、ドストエフスキーは敢えて極端な例を書いたこと。氏の作品が黒いのは、悪魔を描くことで神を浮き上がらせる点。このあたり、コーマック・マッカーシーにも似ている。

 

な、面白そうだろ?

 

では音楽。若き友人が称揚してくれたビートルズ『サージャント・ペパーズ』より。

◆表題作

 

 

サージャントペパーズとドラッグ的に繋がるのはRCサクセション82年のアルバム〝Beat Pops“。

◆君を呼んだのに

 

 

高峰秀子さんは偉大である。また、吉満義彦なる遠藤周作の師匠筋に出会ったのは、すこぶる幸甚と思う。

いずれも主イエスのお導きであります。アーメン。