近所のミニシアター、戦争映画特集第4弾は塚本晋也監督『野火』(2014)。
自分がくだんの特集、延々観続けているのは「戦争の伝え方」に疑問を抱き、模索するため。そう言って過言ではない。
『戦場のメリークリスマス』『沖縄決戦』『東京裁判』・・・果たしてこれは戦争映画であるか。そう思われたり、思えなかった作品も。
別途総括するとして、塚本晋也監督の本作は戦争映画じゃない。ホラー映画である。
それもC級、いやE級の。
第二次世界大戦、フィリピン戦線。田村一等兵(塚本晋也)は肺を病み、部隊を離れて野戦病院 ー といってもただの掘立て小屋 ー へ行けと命令される。
だが、掘立て小屋は満杯で、食糧もない。田村一等兵は部隊から5日分の食糧として痩せた芋を5つ持たされるも、軍医はそれだけ置いてゆけと。そして追っ払われる。
やむなく部隊に戻るが、分隊長(山本浩司)は「なぜ戻ってきた。この厄介者が!」とビンタの挙句、田村を追い返す。これが都合5往復ほど繰り返される。
再び掘立て小屋に行った田村一等兵。夜、食糧の奪い合いの最中、田村と向かい合う兵士の後ろから突如化け物が走って来て、兵士を突き倒す。彼は顔が真っ赤に崩れ、死ぬる。
これは敵の射撃を表したものだが、一事が万事この体である。
野戦病院は敵に燃やされたし、自分の部隊はどこに行ったか分からない。田村はかくして1人ジャングルを彷徨す。
ある日彼は教会のような建物を見つけ、入る。入り口付近には死体が山積み。
と、近くの美しい湖で、若い男女がラブラブ。キャハハしておる。田村は長椅子の下に隠れる。
ふと顔を上げると、逆光で顔の見えない何者かがヌボーッと立っている。ゾンビである。
ゾンビかと見えた何者かは、くだんのラブラブ男女であった。田村は銃を構え、現地語で「殺さないから、殺さないから」と言い募る。
はい、ここでお察し。女の方が目を瞠ってきゃーきゃー喚き、音楽と共にズンズンズン、田村発砲し、女死ぬる。
こういう作りがまさにC級。
ホラーである所以は他にも。
彷徨う田村は4人の日本軍兵士と出会う。伍長(ブランキージェットシティの中村達也!)は彼に「おまえ、パロンポンへ行けという命令を知らんのか」。田村がたまたま持っていた塩を舐めさせるのと引き換えに、伍長らは田村の同行を許可する。
ジャングルを進み抜けると丘が。昼間は敵の目につくから夜を待ち、その丘を超えむとす。
真っ暗闇に顔が浮かび上がる。その眼に瞳孔はなく、真っ白。と、いきなりサーチライトで照らされ、大虐殺が始まる。
敵の激しい銃撃。腕が飛ぶスローモーション。千切れた切断面から血が噴き出す。これはまだ良い。
突っ立った兵士の顔が溶岩のように、真っ赤に溶けゆくSFX。ゆっくりぬめりと溶けてゆく。スクリーミング・マッド・ジョージかよ。
つーか、そもそもそこにいたの4人じゃなかったっけ。田村を含めて5人。なんで突然うじゃうじゃ出てくるのさ。
とにかくギャーギャー騒がしい。米軍に降伏しようと白旗用意し草陰で様子を見る田村一等兵。と、先に白旗持った兵隊がよろよろ歩いている。
彼はいきなりマシンガンでドドドドドと射殺される。撃ったのは米軍ではなく、同乗していた現地の女。ギャーギャー言いながら撃ちまくる。
道中途中で知り合った、日本軍の2人組。1人は國村隼かと思いきや、実はリリー・フランキー。もう1人は若い衆・永松(森優作)。
リリー・フランキーはタバコを持っており、永松がそのパシリ。たまさか出会う友軍兵士に〝タバコと食糧を交換してくれろ〝の係。リリーフランキーは足が悪い設定。
この永松というのがやたらに泣きだす。演出自体がまず浅はかだが、演じる森優作も、ハッキリ言って下手くそ。そこいらのアンちゃん喋りで、ところどころ台詞が聞き取れない。
喋りといえば分隊長も永松も、リリーフランキーも、今どきの東京若者言葉遣い。〝バーカ、✖️✖️してんじゃねーよ〝というね。
当時の帝国軍人がそんな喋り方するかよ低脳。
この永松が・・・またゾンビ。
とにかく露悪的で、「ほら、戦争ってこんなに残酷なのよ」とウザったい。
これはかつて観た白石和彌監督『孤狼の血』と同断で、「ヤクザってこんなに残酷なのよ。ほら、怖いでしょ?」。全く怖くないですね。むしろギャクでしょう。
最近の邦画の監督って、みんなこんな風なのかね。エンタメならまだしも ー 白石和彌のはエンタメ以前だったが ー 精神性の薄いこと薄いこと。
塚本晋也って、もっとマトモな人かと思ってた。というのも、映画の冒頭に彼の挨拶動画があって、いわく
「戦争の悲惨・残酷を伝えたい」
アジすか!
これでは戦争の悲惨さ()は全く伝わらない。血がドバーッ!顔がぶにゅぶにゅもさりながら、やたら泣き叫んだり、作り自体がただ気持ち悪いだけ。
戦後帰還した田村が自宅で小説を書くシーン。妻(中村優子)が5寸ほど開いた隙間から覗くと、田村はぐいんぐいん揺れているというね。
清水崇『呪怨』かよ。
日本家屋の薄暗い廊下の向こうから、何が出るかとワタクシもはや期待しちゃいました。
パンフレットを見ると
・映画評論家の佐藤忠男「戦争のリアリズム」←✖️
・四方田犬彦「異形の者への変身」←△
佐藤忠男の「戦争のリアリズム」云々は全くない。理由は上述のとおりで、実際の戦争はあんなに戯画化されたものではなく、もっと淡々としている。だからこそ恐ろしいのである。
四方田犬彦のは、本作がまずもってホラーであること(ただしC級以下)を見抜いている。が、彼が塚本晋也の『鉄男』から本作に至る〝塚本晋也の文脈〝を踏まえてそう書いたのは分からんこともないが、忖度しすぎだと思う。
あまりに出来が拙すぎて、四方田犬彦は、そうとしか書けなかったのではないか。
本作はご存知、大岡昇平『野火』をもとにはしている・・・ような気もする。が、大岡昇平のは人肉食に触れてはいるものの、むしろ
「なぜ自分は米軍の若い兵士を撃たなかったのか」
という、いわば宗教的体験こそ肝である。
大岡さんは実際に出征しフィリピンで戦った。『野火』の田村はその実体験であり、帰還してからの述懐と、〝思考実験〝である。
部隊からはぐれ、自裁しようと手榴弾のピンを抜くも不発。居直って寝っ転がっていたところへ1人の若い米軍兵士が現れる。
草陰で田村一等兵こと大岡昇平は思う。「これは撃たねば」。だが結局彼は撃たなかった。
なぜか。
大岡氏はクリスチャンではないが、青山学院・ミッション系の中等部に行き、少なからず宗教的背景を持っていた。彼はそのことと、すんでのところで撃たなかったことを思う。ただただ思うのである。
映画はもっぱら人肉食だの血がドバーッだのに特化。原作の、深い思索や宗教的体験には全く触れていない。
原作と映画とは別物。でもこれは「人間」を表してはいない。戦場という特異な場でこそ剥き出しの人間性が現れるが、塚本晋也監督の映画はただ単に戯画・デフォルメに堕し、全く戦争と人間を描けてはいない。だからいかに戦争映画()と言い募ろうと、「」に括られる。
ホラー映画と銘打てば、まだ分からなくもないですよ。でも大真面目に「戦争の悲惨さを」って言ってるでしょ?
昨今のB級ホラーですら、もっと出来は良い。これはせいぜいC級以下のホラー映画であるし、「原作:大岡昇平」と銘打つなら、それは大岡さんに対する冒涜である。
◆予告編