恙無く、綾冠さまへの茶友の目通りも終え、月光殿へと急ぎます。
ここは硯屏の点前がみられるとのことで、期待してまっていました。
待ちくたびれたのか段々と騒がしくなる待合。広々としたスペースに壁際にだけ坐る人々というのもちょっとなんだよなぁ、と思わなくはないのですが、交通整理が必要な気はします。
いざ、席入りというときに一悶着。後から並んだ人たちが先に入っていってしまいました。重鎮の先生が怒って「後から来たのに先に入るんじゃない!」と。
まぁ、気持ちは分かりますが、私はあまり気にしない方なので、会釈をして入ります。
先程の席で次客に座られていたかたが、正客に坐られていたのですが、ご招待の方なんでしょうかね? ちょっと鯱張ったような態度に一抹の不安。
長板には二条関白家旧蔵の鳳凰風炉と千本松釜(下間庄兵衛作)と染付の硯屏。
なんか、想像していたのと違います。
人数が多すぎたのか、相伴席に案内されたのですが、席主から「あちらにまだ余裕があるので、移動していただけますか?」とのことで、貴人口近くに移動。
違い棚や床も拝見することなく着座。
掛物は狩野周信の瀧門鯉。登竜門の故事は「龍門を登る」という動詞であり、名詞ではないのですが、日本では名詞敵に使われてしまっているのが不思議な言葉です。
さて、この故事については、本当は後漢の李膺【り・よう】の話をしなければいけないところなのですが、正客からの振りがないので、席主も触れない感じで終わってしまいました。残念。
中央には偕楽園焼(紀州藩御庭焼)の冠香炉。かなり大きいもので、一抱えほどのサイズです。これは紀州家からの贈り物かと思われます。
水指を運び出すと、硯屏を移動して、長板の右半分(硯屏が置かれていた側)を清め(五つ拭き)、湖東焼の赤絵水指を据えました。この文人図の水指も過去に一度みたことがあります。湖東焼は彦根藩の藩窯で、井伊家と安藤家は仲が良いので、贈られたものではないかと思われます。
このときの硯屏の動きが水指に遮られて見えない!のが残念でしたが、硯屏を平のまま中央に移動し、竪に向きを変えて「茶筅が風で倒れないようにする」のがこの硯屏点前の目的であるとか。
高坏の菓子器は「上を持たないでください」と席主が再三注意したにも関わらず、上だけ持ってくるくる回す人が続出。軸を持ちましょうね、軸を。普段、稽古なさっていないのでしょうか(月桑庵では高坏はお茶会へ行こうで出しています)。
主茶盌は南京色絵縞文で、民窯のものではないかと思われます。それよりも替茶盌の三斎公好・高田焼三島で、どちらも私のところまでと席主がお声がけくださいまして、じっくり拝見できました。
珍しかったのは、違棚に飾られた唐銅水滴とその唐物堆朱盆です。
龍亀図硯の右側には筆架と矢立が置かれており、母が「堆朱の筒なんて初めてみた」とあとで感想をこぼしておりました。
殆ど聞こえなかった正客の声が最後に聞こえたと思ったら「月光殿の床のご説明を」とのこと。え、この写しの説明をさせるの?席主に?と心のなかで思いましたが、流石は席主、きちんと説明されていました。
私と茶友は「あの説明はネットで知れる話ですね」と少しガッカリいたしました。もっと別のことを聴いてほしかったです。
大勢なので、できるだけ早めに退散し、次のお席に向かいます。

