小説を書いていて、一番感じるのは「設定の連動性・連結性」です。
茶道においてこの連動性・連結性があるのか?というと、道具組みの物語がそうです。
複数の道具をひとかたまりにして意味を持たせたり、いくつかの道具を同じ物語で別の角度から見立ててみたり、そうした連動性・連結性があってこそ「まとまりのある物語」という認識をされると思います。
こうした物語の中で、何が一番下手(げて)かというと、「即物的な視覚情報」だったりします。
つまり、そのものズバリが「描かれている」というものです。
それが駄目ということではなく、それをどううまく使うのか?ということが問われるので、実はかえって難しくなってしまうのです。
端午の節供に遠山の茶盌を富士に見立てて使えば、不二写しの茶盌を添えて、鳳凰(不死鳥)風炉を使いたくなるものです。
こうしたつながりこそが御馳走であり、その道具を何故使ったか?を自分なりにでもいいので説明できることが大事になってくるのですね。
一番悲しいのは「定番」とか「◯◯宗匠がこうされていたので」というのが一番悲しい。
「◯◯宗匠がこうされていたので真似したのですが◯◯ということなんでしょうか」の方が、大分いいとおもうんですけどねぇ。
あなたはどう思われますか?