先日、女性新聞のコラムを読んだ。
誉田記念館の企画で「茶書を通して探る千利休の虚像と実像」というキャッチーなコピーが竪イチでブチ抜きになっていた。
実際、利休の手柄となっていることの多くは他の茶人の考案したものであろうと私も考えているが、このコラムでは「掛軸が『第一の道具である』というのは、偽書『南方録』によるでっち上げであり、利休の時代には唐物の絵や画賛が主であり、禅語は珍しい」ということなのだ。
今日のように禅語だらけになったのは、実は戦後のことなのである。
茶聖・千利休の虚実
例えば、利休が定めたとされる一尺四寸の炉であるが、実は足利義政の方丈(四畳半)の茶室の炉も既に一尺四寸である。紹鴎の茶室も炉は一尺四寸である。つまり、利休以前から一尺四寸であったということになる。
ただし、統一されていたとは言えないが、主流派であった東山流の茶人や珠光流(奈良流)の茶人らは一尺四寸であったと言われ、自然と収斂した結果ではないかと考えられている。
こういうことは案外他にもあって、特に武野紹鴎との相談において利休が関わったとされるものは、ほぼ例外なく虚像であると考えて良いだろう。
武野紹鴎の虚実
武野紹鴎は利休の師ではないことは、『山上宗二記』の記述を読めば明らかであり、利休は孫弟子にあたる。現在は、利休の師は辻玄哉であるとされている。
そして、武野紹鴎の師も珠光の弟子ら藤田宗理や松本宗吾らではなく、三条西実隆である。
三条西実隆は当時、当代一の文化人であり、連歌だけでなく、茶の湯にも精通していた。『実隆公記』によれば武野紹鴎に茶の湯の指導もしており、武野紹鴎が堺に帰郷するまで、師弟関係にあったと見るべきである。
この頃、三条西家は多くの公家の実情に漏れず、金銭的に困窮していたが、皮屋の武野新五郎が資金援助をしており、これも息子の紹鴎が師事していたと考えると納得できる。
つまり、紹鴎は珠光の弟子らと交流していたのであり、三条西実隆の交流グループに参加していたため、彼らと交流できたのではなかろうか。そもそも紹鴎は連歌師として法橋となっており、因幡守に叙任されている。つまり、武野紹鴎は茶湯の宗匠ではなく、連歌師であった。
しかし、堺では茶の湯が大流行している。帰郷した紹鴎を待っていたのは、茶の湯の教えを乞う堺の商人らであった。一流の茶人らと触れ合った生の話を誰しもが聞きたがったのである。
帰郷した紹鴎は三条西実隆を招き連歌の会を催しており、連歌師としての活動を始めている。しかし、紹鴎はどちらかというと茶人として持て囃されるようになる。
侘びの系譜ではない武野紹鴎
ここまでを見てきて、武野紹鴎が侘びの系譜ではないことが分かるだろうか。
実は数年前から私は紹鴎の茶に侘び茶の流れを余り感じておらず、どちらかというと、書院の茶の匂いを強く感じていた。これは紹鴎のはじめた棚物が、溜塗の袋棚と溜塗の水指棚であるからだ。つまり、書院を崩した侘びと書院の中間を示している。
これはひとえに三条西実隆の茶風が書院茶であったことに因ると考えられる。しかし、堺の実家は三条西邸のようにはいかない。そこで考え出されたのが、袋棚や水指棚ではなかったか。
この行の茶とでも言うべき新たな茶風は、まさしく珠光の弟子らとの交流の中で生み出されたものであろう。特に鳥居引拙の影響を大きく受けたと思われる。紹鴎袋棚は鳥居引拙の引拙棚(引拙袋棚)の再好にすぎないからだ。