こちらいつも参考にさせていただいているブログ。

畠山尾州家の紀伊動向については不明な点が多く、こうした考察や研究者の論文を待っていたところだったので、タイミングがいいことこの上ない。

 

丁度、第一章から第三章まで見直しをしているところだたからだ。

 

畠山稙長の尾張守任官は大永五年以降とされ、大永四年までは河内次郎と表記されているとのこと。

 

ここで、稙長の紀伊国大野攻めが享禄年間であったという比定がなされいる。

 

つまり、細川高国が京より退去した際、和睦に反対して帰国(稙長勢は大永8年2月5日に京から退陣している)、賀茂氏の大野を攻めたということになる。

 

この賀茂氏は、畠山尚順に従い、稙長と対立、のちに総州家に合流するという動きをしており、反稙長陣営である。

 

この一連の流れは、高屋城を失ったものの柳本賢治と和睦をしたことで河内国内の尾州領が安定したために紀伊への軍事活動が可能だったということになる。

 

・享禄2年
9月23日 史料② 小山俊次が稙長の大野攻めに対して音信を送る
10月1日 畠山九郎(稙長弟)が賀茂・貴志・宮崎・梶原氏との連携を依頼
10月16日 史料⑧ 丹下盛賢・遊佐長清が賀茂・貴志・宮崎氏と接触(翌年でも可)
12月15日 畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る

・享禄3年
2月6日 史料⑦ 賀茂氏が稙長方に色立。湯河・貴志・宮崎氏と連携を行う
3月12日 丹下盛賢を介して小山俊次が式部大夫に推挙される(翌年でも可)
6月26日 史料④⑤ 賀茂荘の不入を畠山稙長が保証
7月28日 小山俊次の保呂城が敵対勢力に敗れ落城し、稙長がその際の感状を出す(翌年でも可)
8月3日 史料⑥ 稙長の有田進発が延引中。賀茂氏の家の事を改めて保証
8月15日 畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る


・享禄4年
5月10日 史料③ これ以前に稙長方が藤並荘を確保しており、賀茂氏に去年以来の貢献により藤並城周辺が与えられる

 

 稙長が大永8年に京を退去後は、細川高国が10月頃までに近江に没落していることが確認でき、11月には甲賀衆と共に大和に赴くという風聞が立っているとある。


稙長は10月頃から柳本勢に高屋城を攻撃されているが、大和は畠山尾州家の勢力範囲であり、この行動は稙長と連携を試みたと考えられる。


その後11月16日に高国は伊賀に向かうも、12月頃に高屋城は和睦によって明け渡されたため、稙長を頼ることが難しくなった。


それを受けてか翌享禄2年伊勢を出た段階で近江海津・越前敦賀を経由して丹後から播磨に向かうことを述べるなどある程度の計画性を持っており1月23日に高国は伊賀から伊勢に移っている。本命は西国勢だったこと、また最初に頼ろうとしたのは尾州家だったと考えるのが自然である。

 

 ここまでは概ね同意である。しかし、

 

享禄4年3月には足利義晴は高国方の細川尹賢に御内書を発給しており明確に高国方と連携していることが確認できる。

 

という一文は少々疑問である。というのは細川尹賢は享禄元年に三好元長に下っており、享禄四年段階では晴元陣営の武将であり、三好元長麾下となっているからだ。この事は義晴は晴元との和睦を諦めていない証左となる。

 

この時期の高国方と稙長方の明確な連携の様子は確認できなかったが、義晴方と稙長方の連携については引用記事の小山俊次への官途推挙が当て嵌められるかもしれない。
俊次は大野攻めの際には三郎五郎表記だが、享禄4年3月以前に畠山稙長の推挙により式部大輔に任官している。
この推挙が紀伊での貢献に対する報酬と仮定すると、(この記事で享禄3年と推定している)賀茂進発や有田進発が行われる前だと些か早すぎる気もするため、奥三郡(有田・日高・牟婁郡)を概ね抑えた翌年と考えるのが妥当ではないかと考えている。

以上のように確実性はないが、稙長の紀伊での活動は連携相手である義晴・高国の動きとある程度関連していたという理由付けを述べておく。

 

 細川高国と畠山稙長が連動していたというのは別段不思議ではなく、伊勢の北畠国永が女婿であり、稙長が姪(女系の甥)であることを鑑みれば、高国との連携はぐるりと若狭・近江・伊勢・紀伊という遠回りではあれ、連絡線は繋がっていたとするのが正しい。特に享禄三年頃からは京に再び進出しているのだから、稙長も河内への影響力を強めていたと考えられる。

 

 しかし、大物崩れによって細川高国が敗れたため、堺幕府包囲網は破綻し、稙長は紀伊から出ることにならなかったのではないだろうか。