Twitterの創作畑で話したことが、茶道教室のことにも通じるものがあるので転記します。

 

 昨晩、激論(大声出して失礼しましたm(_ _)m)が繰り広げられましたが、「手段の目的化は本来の目的を損なう」からこそ駄目なんですよ。 

 

 例として挙げると、茶道界でよく言われるのが「人を集めるためにカジュアル化しなくては」です。これ茶道教室を初めて大体多くの人が言いますね。

 

 ですが、 ちょっと待て。それは何のための集客です?

 

 茶道教室の集客は、本来、次世代に茶道を【正しく】受け継ぐためのものであるはずです。

 

  それなのに、何故、茶道を【カジュアル化】しようとするのでしょう??

 

 それでは本末顛倒ではありません? 

 

「正しく茶道を伝えるため」に始めた茶道教室の集客が、「茶道教室の維持や自分が先生で居続けるため」の集客に変わってしまっているんです。

 

 そして、手段が目的化したことにより、本来の目的を毀損しています。 

 

 カジュアル化というのは、家元がこうしましょうとしていることではないので、「教室主が勝手にやっていること」です。「◯ーブル茶道」とかいうのもそうです(卓上で喫茶することはなんら問題ないし、それなら「点茶法を教えればいいだけなのになんで別の名称が必要なのか理解不能」)。

 

 投稿サイトにおける「ランキング上位を獲る」を目指して作品を書くことも同じことです。 

 

 どんな人でも、投稿サイトに作品を出したということは、誰かに「読んでもらいたい」からなんですよね。

 

  その上で共感してもらいたい。

 

 できれば「面白いと言われたい」と思っているかと。

 

  けれど、読まれない。

  埋もれる。

 

 その結果、 「読んでもらうためにはランキングに載らなきゃ!」という思考になる。そして、そのために「読まれている人気ジャンルはなんだ?流行りの文体は?どんなキャラがみんな好き? 」となっていきます。

 

 ちょっと待て! 

 それ、あなたが本当に書きたいものですか?

 

 元々、読まれなかった作品を書いた動機を忘れていませんか?

 

  私は、各作品に「書いた動機」があります。

 

 特に「数寄の長者」は強烈なとある作品のアンチテーゼでした。 それは「利休にたずねよ」という商業作品です。前に、小説を読んで「なんと嘘ばかりか! 茶道を安っぽく描きやがって!」と投げた作品です。

 

  それが映画化するというので観に行きました。 

 

 小説以上に内容は酷かったですね。筋書きや構成というものが悪いわけではありません。 悪かったのは時代小説ばりの創作でした。

 

 しかも、まともな茶道家なら、当時の茶の湯を全く知らない人が書いたのが直ぐに分かるほどの酷さです。

 

 「これが史実だと思われたらたまらん!」と、まずは勢いで書き始めましたが、自分も全体の流れを通した歴史をすべて知ってる訳ではないことに気付きました。

 

  では、どうしたらいいのか?

 

  先ずはどう書くかを考えました。そして「利休の生まれた年から死ぬまでの『室町時代そのもの』を書こう」と決めたのです。 

 

 それは、「利休のことだけを書いても何故そう考えるようになったのかを読者に伝えることは難しい。その当時の空気感や習俗というものを詳らかにしていくことで、自然と利休の考えを理解できるようにしよう!」ということです。

 

  なので、この作品は「歴史小説愛好家のための作品ではない」のです。 茶道を習っている人が、当時の茶の湯の実態を知り茶道の理解を深めるための作品なんですね。

 

  それはひいては和文化を好きな人にも受けるかも知れませんが、私の目的はそこじゃない。

 

 だから、ランキングに載ったら嬉しいし、色んな人に読んで貰えるのも嬉しいですが、目的を見失って、ランキングに載るように内容や文章を変えてしまったら、ブレてしまいます。

 

 目的を大きく毀損します。

 

 このことから、皆さんにメイキングターゲットの解像度を高めた方がいいですよ!と言い続けて居るのです。そこが明確になっていれば、ランキングやPV、★やいいね!の一つ一つに一喜一憂することはなくなります。

 

 この思い、分かって頂けたら幸いです。