細川高国の家臣に内藤彦七という諱不明の武将がいる。享禄三年十一月に唐突に現れ、近江から勝軍地蔵山城を築いて洛中を再占領する功績を挙げているが、敗者故かあまり詳らかになっていない。
しかも、大物崩れの前に丹波国保津城で戦死しているのだ。
享徳三年十一月四日、細川高国党内・内藤彦七ら、勝軍地蔵山城を修復してこれに拠る。京都の人々はこれに驚いた――というのが、彦七の初出であろうか。
その後、同年十二月十一日、近江六角軍と柳本残党、法性寺で合戦。海蔵院・法性寺八町在家焼亡――という記録がある。この近江六角軍というのが、内藤彦七であったと考えられる。
そして、享徳四年一月五日、川崎観音、兵火により焼亡。前後関係からみて、これも内藤彦七であろう。
同年一月十一日、木沢長政、柳本残党(柳本甚次郎)細川高国と洛中で戦う。この日、長政ら東山辺焼く――とあり、高国勢は東山まで押し戻されたようだが、これも内藤彦七に比定できる。
さらに同年二月十日、柳本賢治残党、細川高国党と禁裏辺で戦う――とあるが、誰とという記録はない。しかし、当然の如く、内藤彦七に違いない。押し戻された彦七が内裏の周辺に出張っているので、再び洛中を窺ったということだろうか。
そして、同年二月廿二日、木沢長政、内藤彦七の軍破る。兵火により川崎観音・神護寺・法性寺など焼亡――内藤彦七はかなり木沢長政との相性が悪いのか、再び敗れている。
ところが同年三月五日、内藤彦七、木沢長政軍を禁裏辺で破る――到頭、彦七が木沢勢を破った。
問題はこの翌日、三月六日、内藤彦七は浦上村宗と合力して池田城を落としたことになっている。たが、仙洞御所を起点に池田城までは徒歩で10時間22分。距離にして44.7㎞だ。通常の軍団の移動は四時間で20㎞、京から池田城までは二日半強となる。強行軍(30㎞/六時間)で移動するにしても、この距離は一日では難しい。
つまり、京で木沢長政と戦った彦七と、池田城に現れた彦七は別人でなければならない。兵を置いて、武将単独で移動したとは思われず、また、大山崎城は晴元側の城として健在であった。なんなら、香西残党もまた晴元側として勢力を確保している。上三郡は畠山総州家の勢力範囲であり、ここを通る事は難しい。木沢長政も久世郡を本拠としておりここを掌握している。となると、口丹波ではなく大きく北に迂回して丹波を経て池田城に向かいことになる。それでは、翌日池田城に現れることはありえないのだ。
ここで別人とした場合、ひとつの仮説が考えられる。彦七が高国の内衆であり、父と子で同じ仮名であった場合だ。
つまり、父の仮名が記録されたと考えれば、天文廿二年に内藤彦七という別人が晴元の家臣として活動していることも整合性が出る。高国が没したあと、転向したかその子供であると考えられる。
享徳四年 1531 『厳助往年記』 (5月)23日、於丹波保津内藤彦七討死云々
これまで京方面で活躍していた内藤彦七が、唐突に丹波国保津城で討死している。距離的感覚からして、京にいた彦七ではなく、父親の彦七入道であろう。後のことを鑑みると、このとき高国は晴国を丹波方面の大将として送り出したと考えられる。が、晴国はまだ若年であり、実質的な大将に誰かを宛がう必要があった。そこで彦七入道を起用したのではなかったか。池田城を落とした軍勢を晴国に付けて丹波に送り出した高国はその後、非業の死を遂げる。
天文22年 1553年 7月29日
足利義藤が西院(山城国)に野伏せりを仕掛ける。細川晴元の家臣・内藤彦七、香西元成、三好政勝、十河左介、宇津二郎左衛門が談合のため義藤の陣所を訪れる。義藤は彼らに酒を振舞う。大舘晴光、上野信孝、上野与三郎、杉原晴盛も談合に参加。同朋衆に酌をさせる。下京に1町につき結橋2つを賦課する。
出典:『言継卿記』同年月日条
後年になるが、天文廿二年に登場する内藤彦七は面白いことに、香西元成や三好政勝と肩を並べている。この点からすると、この内藤彦七は一定の勢力を保っていたということになる可能性がある。
天文22年 1553年 7月30日
足利義藤が北山(山城国)より北野社右近馬場を経て西京東南角の松之本に布陣する。西院小泉城(山城国)を内藤彦七らに率いられた細川勢3000-4000とともに包囲する。西七条・鳥羽あたりで火が上がったため西院城への三好の後詰に備えたが、三好勢が来なかったため再度、西院城を包囲し、城の東北に布陣した奉公衆の上野信孝と杉原晴盛に城攻めを命じるが、兵の損耗を嫌った両者は攻撃をせず。夕方、北山に帰陣する。三好長慶が、申刻(16時)、鳥羽(山城国)に布陣し、東寺にて野伏せりをする。
出典:『言継卿記』同年月日条
という記録もある。このことから、京の内藤彦七はのちの内藤貞治(河内守)ではないかと指摘する声もある。個人的には、世代的に彦七の子と考えられる。ちなみに私の小説では、父の彦七を元貞の弟・土佐守貞信とした。
内藤河内守というのは、丹波内藤氏の系譜には見当たらない。同時代に細川信良(昭元)の側近として内藤貞虎が居り、内藤如安と対立しているということは内藤氏の当主格を争った可能性もある。貞虎は国貞の子に作られ、貞勝・貞弘(如安)の弟とされている。しかし、国貞には永貞(彦五郎→弾正忠)という後継者が存在する。この両者が歿した後は、松永長頼が家督を継承することになっていたが、外聞を憚ったのか、内藤氏の血を引く千勝(母親が国貞の|女《むすめ》)が継承することになり、これが後の貞勝に比定される。
丹波内藤氏の系譜では、永貞を国貞の弟につくるが、同時期に活動していて、仮名・官途名が共通するというのは父子でなければあり得ない。国貞が備前守を名乗っているからこそ、弾正忠を名乗れるのであり、ここは父子と解するのがよい。

つまり、永貞・貞弘・貞虎が国貞の子であり、松永長頼の子・貞勝が家督するのに反抗したのが貞虎ということであれば話は理解しやすい。特に内藤彦七(貞治)は、三好家と敵対している陣営に居続けたということになるからだ。
私の小説では、土佐守貞信が彦七入道(入道則繁)であったと仮定し、貞徳の跡を継いで、勝軍地蔵山城の彦七に貞繁という諱を用意したが、貞誠が諱であったことが判明したので、これを修正しなくてはならない。ついでに、柳本甚次郎は元次で、香西源蔵は元近であることから推察するとこの時期、細川六郎はやはり「|元《もとひ》」という一字名を名乗っていたと思われる。
あくまで小説用の設定であるが、自分としては腑に落ちて整理が着いたのでここに記させてもらった。