大物崩れの前の戦いを現在書いていますが、池田城の戦い、記述のある場所によって表現が違います。
池田城の戦いは享禄四年三月六日に落城ということは分かっていますが、
池田城(Wikipedia)は
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%9B%BD)
享禄4年(1531年)の大物崩れでも高国の攻撃を受け、この戦いの後に城の復興で主郭の堀を広げ周りに土塁を設け、南側にも連郭状の曲輪を設け防御陣地を広げていった。
とかなりあっさり。
池田信正(Wikipedia)は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%AD%A3
享禄4年(1531年)に高国と連合を組んだ浦上村宗に池田城を攻め落とされたり
こちらは浦上村宗に攻め落とされてます。
中嶋の戦い(Wikipedia)では
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B6%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
3月6日には勝軍地蔵山城から出撃してきた内藤彦七らによって、摂津の要所であった池田城を落城させた。
とこちらでは内藤彦七が落城させています。
見方によって、いろいろ書いていることが違うの困るんですよねぇ(笑)
・高国陣営が池田城を攻めた
・浦上村宗が池田城を攻めた
・内藤彦七が池田城を攻めた
これらは全部事実であったと考えると、細川高国が同陣していない可能性が高く、本陣として後方にいた。浦上村宗は高国の指示で攻めた。内藤彦七が将軍地蔵山城から援軍に駆けつけて落城した。
となる訳ですよね。
そして3/10に中嶋の戦いに突入。
いやはや、急展開!という感じ。一先ず、大物崩れまで書いていきます。