夏至も過ぎましたので、暑中も近くなり、そろそろ切合風炉の時期ですね。

 

 切合風炉というと、代表的なものが唐銅朝鮮風炉です。

 多くが真形釜が添えられていて、よく使われているのに、今ひとつ由来がはっきりしないことでも有名です。

 

 それと唐銅鬼面風炉。格が高すぎて、小板で使うのをためらってしまう(唐銅だと)風炉でもあります。流儀によっては「使わない(奥秘以外では)」としているところもあるようです。

 

 もう一つが唐銅琉球風炉。こちらは利休の師であった、北向道陳が好んだことから立休庵風炉を略して立休風炉となったとか。

 

 そこで、調べたところ、堺には「長泉寺」という寺院がありました。

 

 長泉寺は南十萬(みなみじゅうまん)と通称されている浄土宗の寺院で、文亀元年(1501年)に衆徳恩冏(しゅうとくおんけい・十萬上人)によって開かれたそうです。恩冏は戦乱の世を憂い、浄土三部経、妙典十萬部を書写し、これを人は十萬上人と称したとのこと。長泉寺はその後、南北に分かれ、北のお寺(悲田院)を北十萬、南のお寺(長泉寺)を南十萬と称しているんだとか。


 恩冏は東大寺の学僧で、永観二年(984)に宋から持ち帰った像の1つという阿弥陀如来坐像を安置して創建したのだそうですよ。




 ここから先はまだ、手つかずですが、言いたいことはわかっていただけたと思います。

 

 北向道陳の住んでいたとされる場所から、北東の位置にあり、北向道陳の家を琉球に見立てるとちょうど朝鮮の位置にあたる場所でした。

 

 こういう言葉遊びが、茶道の面白さでもあります。

 

 端午の節供にいつも使う銘「醍醐」の黄瀬戸茶盌も、音が「第五」に通じるからですが、これには少し由来がありまして、斉の王族田氏が関中に移った際、あまりにも人口が多かったために、第一~第八まで氏を分けたそうです。その後、第五氏以外の氏はあまり多くなくなり後漢の第五倫の血統が残ったようです。

 

 こうして考えると田口釜が載った琉球風炉がふさわしかったかなー?と思ったりするのですが、ココまで知っている方も少ないでしょうから、物語としては難しすぎる部類になると考えて、あえて琉球風炉を取り合わせないようにしています。

 

 物語というのは「あればいい」というものではなく、「深すぎないこと」も大事です。

 

 しかし、浅すぎるのも考えものなので、一つ二つはひねりを入れて用いると良いと思います。

 

 さて、来月は、水無月のお茶会へ行こう。

 昨年は平水指でやりましたから、今年は手桶で霙点前をいたしましょうかね。