第三章のプロットを書き終えて、ついでに第四章のプロットを作っておくかー!と書き始めてはたと気付きました。

 

 武野紹鷗が帰郷する前、山科本願寺に武野紹鷗が手勢を十名ばかり連れて参じていたことを。

 

 これは本願寺の内乱「享徳の錯乱」の際のことで、享徳四年(1531)六月末に山科本願寺に入っています。八月には一度帰京し、廿四日には三条西実隆を訪問しました。

 

 しかも、本願寺は青蓮院門跡の末寺であり【珠光に伝手があった】ことになります(但し、作中では最初に茶道へ興味を持っていない設定でしたが)。

 

 享禄年間末当時、京都では法華宗による一向宗の僧狩りが行われていたため、改めて享禄五年二月に大徳寺の古嶽宗亘から受戒して紹鷗に、改めています(※紹鷗は堺で一度得度しています)。

 

 この頃は個人の帰依と家の帰依を別のものと考えており、家が一向宗でも個人的に禅宗から受戒することは出来ました。と言っても、家が改宗するわけではなく、家と宗門の付き合いは残ります。更に言えば、紹鷗の子である宗瓦は妻が本願寺坊官の娘です。

 

 その後、山科本願寺から持ち出された祖像が転々としたのち、天文二年《1533》七月廿五日に大坂本願寺に鎮座しています。

 

 武野家は本願寺と結びつきが強く、そのことで息子の宗瓦も信長から睨まれていたほどですから、これに関連して帰堺した……ということではないでしょうか。祖像受け入れのための、改築などの手配とか、寄付を募るとかの手伝いみたいな?(商人ですから、伝手を紹介することもできたでしょうし)

 

 京を離れたのは天文二年(1533)三月廿六日(『実隆公記』)。その翌年四月、自らが主催した連歌会の発句を実隆に依頼しています。

 

 このあたりの話も、ちゃんと織り交ぜて、作品を作っていきたいと思います。