さて、三席目。
長蛇の列だったので無理だろうな……と思いつつ、不昧軒に行くとなんと整理券の配布が終了とのこと。
後から会記を拝見すると、ああ、こりゃ人集りになる筈だと思いました。
その時は諦めて「石州流伊佐派さんに入れてもらえたらラッキーということで」と、艸雷庵へ。
すると柳営会の監事さんたちがお手伝いで整理券を配ってらっしゃるのですが、三十分ほどあとに配布されるとのことで、しばらく待ちまして、その間に正木さまにお名刺をいただきました♪
正木という名字を聞いたらピンっとくる人もいらっしゃるかと思いますが、三浦氏族の安房正木氏の方ですね。
旗本として仕えたのは正木康長で、康長は正木時忠の五男・頼忠の四男。時忠は三浦氏の後裔・正木通綱(時綱)の子で、兄時茂は大喜多正木氏として里見氏の重鎮であったが、時忠は勝浦に割拠して兄の死後自立を目指し、北条氏と里見氏の仲介をするなどしている。
最終的には里見氏に帰参したらしく、それでもなお幕府と直接の繋がりを持つなどの独自性は担保していた。
頼忠は娘が家康公の側室・於万の方で、将軍家への出仕を求められたが固辞し、次男の為春が出仕した。紀州徳川家に仕え、三浦長門守を名乗って代々家老を務めている。
康長は旗本となり武蔵国で七百石の知行を得ている。左近家を興す。旗本・大久保忠当(大久保忠俊の孫・大久保忠世の甥)の三男を養子に迎え、三代・住成、四代・康度、五代・康村と続き、六代は朝比奈泰尚の四男を迎え、康恒を名乗る。長男・康納が先に歿したため、三男・康満が七代となる。
この系統の方ですかね?
整理券を頂きまして、先にお昼を頂きましょうということで、忠霊堂へ。
さて、食事を終えまして(忠霊堂では「都千家云々」という話が聞こえてきましたが、私は【都流】なので違うだろうと敢えて断定して)、艸雷庵へ。
艸雷庵というのは「蕾」という字を分解したもので、裏千家の女流茶人・堀越宗円の寄進による茶室。宗円が創設した蕾会の「蕾」の一字を分けて命名された茶室で、四畳半台目の本席と六畳台目の隅炉席、それに立礼ができる箒庵堂という構成です。ちなみに躙口もありますし、単独で濃茶席と薄茶席と待合とをできるので、茶事も一つで可能です。
当日使われたのは、箒庵堂。ここは高橋箒庵を祀っているということで、箒庵堂の名前があります。
待合は小林太玄和尚の「絆」。
本席は高田好胤老師の「和」。
正客を決めないのだな―?と思っていたら、どんどん案内するので、まぁいいっかと最後の方に入りました。お詰めに座り、一番先に入った方が正客になる流れ。案の定「えええ!?」という顔をされたので、これは、助け舟が要るなぁと思い、席主さんにお詰めが話を聞くという変な流れに(苦笑)
ところが連客さんがうるさい。
小声でお話になられるのはいいのですが、うるさい。
声が大きいのです。
これには同行した宗歌先生が「宗地先生のお話が聞こえない」と後で嘆かれて居られました。
立礼卓は、長野県栄村の木で作られた立礼卓で、これは同じものを作るのは難しいでしょうねぇ。
建水台が二重棚になっており、下板の上に次茶盌や替茶盌を置いておけるというのはいいですね。
釜は塔景山水の八角釜で、おそらく瀟湘八景ではないかと。
日本の近江八景はこの瀟湘八景を元に考えられたものだと思いますが、八角釜は家伝のもので、あまり詳しくわからないのだとか。
水指は古瀬戸(こせと)の四方形。こちらも家伝のもの。
茶杓は半々庵・伊佐幸琢のもの。
棗は松平不昧公在判の利休大棗で、桐蒔絵。
茶盌は揃いの馬上杯茶盌。こちらは日展作家の鎌田窯・境信夫氏の作品。須坂市坂田町で父子で陶芸をされている同氏。ざんぐりとした土味の強い器に、やや重ための質感。そこに自然灰の溶けたようなビードロ状の釉景が一つ一つ違っていて、面白いですね。
平和=日常が保たれていることということを意識されての道具組みだという席主の思いが強いお席でした。
竹花入が石州作で、なんでも事故?で割れてしまい、黒漆で埋めて鎹で直したものだそうです。
ウチにも直したい花入があるので、どこに出されたのかお聞きすればよかったなぁ。
飴色の竹花入は煤竹ではなく経年によるものだと思いますが、その歴史の積み重ねが現れており、すっと立った、利休回帰を唱えた石州らしい飾りのない素朴さを持った花入れでした(形は一重口)。