伊東潤の『利休論』は納得できぬ。https://t.co/HIOm5AP8O2
— 曲斎@都流/『数寄の長者〜竹馬之友篇〜』第二章執筆中 (@darkpent) 2024年3月3日
大分前に録画しておいたものをようやく観ました。
しかし、納得できるような内容ではなかったのです。
前提として
・利休の屋号は「とと屋」ではあるが「魚屋」ではない→「とと屋」の「魚屋」表記は「大正名鑑以降の表記」で、当時堺には「魚(うを)屋」が存在している
・利休の稼業は倉庫貸し(納屋業)であり、魚問屋ではなく塩魚(塩漬けの魚)を商う者に倉庫を貸していた
・利休ら堺の商人は武器商人であり、最初から政商で、天王寺屋津田家を中心に今井宗久・田中宗易は三好家と深く繋がっていた
という点を踏まえて考えていただきたかったですね。
ざっくりいうと番組の作りが雑で、最新研究を拾っていないという印象。従来の秀吉の派手に対する利休との芸術的価値観の違いによる対立としていなかったことを評価したいが、それ以外の部分がおざなりにされていたという感想が強い(出演者に問題があるのではないかもしれないが)。
まず、最初の方で言われた利休像が「寡黙で穏やかな人」で「何を考えているか分からない」という点に引っ掛かりを感じました。
茶の湯に傾倒し、利休や引拙の点前を再現したいと考える人間にとって、利休は寡黙で穏やかな人ではなく「裡に秘めたマグマのような情熱を持つ人」という印象しかない訳です。
天下の静謐を望んでいたことと、その支援をしようと考えていたことは間違いないとは思います。
そもそも利休は穏やかであったのか。物腰が柔らかく、一見穏やかそうに見えたのは、利休が大男で人に怖がられて来たからではないでしょうか。
永禄十一年(1568)、自分が本物だと思った墨蹟を松江隆仙に贋作と言われて、逼塞してしまうことがありました。この逼塞は津田宗及・津田道叱の取り無しで利休が矛を収めますが、その間丸二年も利休は茶会に出席しないどころが、屋敷に籠もっていたのです。
このような人が穏やかな性格とは言えぬと私は思います。
三好長慶・織田信長という天下人を見てきたからこそ、次の天下人は羽柴秀吉だと思えたのでしょうし、彼への賭けを決断できた。
穏やかな人であるならば、そういう賭けはせず、中立を望むように思えるのです。つまり、熱意を持ち、能動的に世を変えよう!という意識があったと考えられます。
そして、その目的は「茶の湯による天下静謐」であったようにも思う訳です。
利休切腹は秀吉と利休の対立ではなく、三成らとの対立というのはもう一つ踏み込む必要があったのではないでしょうか。つまり、関白秀次の謀叛の副産物の可能性です。
ここは私の小説のネタなので詳しくは書きませんが(笑)
さわりだけ書くと、利休が庇護者であった秀長亡き後も秀吉の側に居続けたのは、秀吉と利休が「刎頸之友」であったからではないか?と見ている訳です。
また、名護屋で「利休の茶」と言っているのは道安の点てた茶のことで、秀吉は道安を「利休によく似たる」と評しています。
特に、利休の死後、蟄居していた道安と少庵が赦されて京に戻って直ぐに道安は御伽衆に加わります。
これは秀吉が利休を殺さざるを得なかったからなのではないか?という疑問を抱かせます。また、道安も父の死を納得していたのではないか?と思わせるのです。
つまり、秀吉は「利休を殺したくなどなかった」が、利休は「自分を殺させることが最善と考えた」のではないか?と。
だからこその取ってつけたような「金毛閣の不敬」や「売僧」の罪が挙げられているのではないかと。
切腹など、商人に申し付ける死に方ではありませんし、切腹は「潔白である」という世に対する抗議というか、身の示し方の一つにもなり、それによって一門一党の命を救い家督を継続してもらうという風に江戸時代に制度化していくような魁がここにあったのではないかと。
だからこそ、秀長亡き後の秀吉を見捨てることが出来ず、側近として残り、結果、命を賭して天下静謐を守ろうとしたのではないかと思えるのです。
さぁ、思いを新たに執筆を続けますか!