すきしゃには、二通りの書き方があります。


 数寄者と数奇者です。


 これはどっちがどうという違いはなく、同じ意味で使われます。元々は、「すきもの」と読まれていましたが、「すきもの」は好色家の意味として定着し、「すきしゃ」と読まれるようになっていったと思われます。


 この数寄者というのは「風流人。特に茶の湯を解す人」とされますが、これは茶の湯の中で数寄者が目立つ存在であったことから茶の湯界隈の代名詞となったものと考えられます。


 数寄者の定義については、当ブログで何度も取り上げておりますので、今更ではございますので、基本的に「名物を持たざる者」であり「胸の覚悟」と「作分」と「手柄」のある者であることとは皆様もご同意くださるかと存じます。


 つまり、近代【すきしゃ】は数寄者ではないと私は考えるのです。


 そこで数寄者と数奇者の字を見比べると【寄】と【奇】の違い、すなわち【宀】のあるなしです。


 これを私は「流儀の笠」と解きます。


 近代【すきしゃ】は流儀を名乗らないことが多く、流儀の規矩では組み合わせないような道具組みをし、天衣無縫と云えば聞こえはいいですが、無手勝流のハチャメチャな道具組みであることが多いです。


 もっとひどいのは現代【すきしゃ】。それはもう美術館のように所狭しと名品を並べまくる。


 そんなのものは個人の自由なので、やりたければやればいいのですが、こうした蒐集家を【数寄者】と呼ぶのに辟易としているのが、私です(苦笑)


 こういう茶席は箱書がずらずらと並ぶのと同じぐらい下品です。過度な化粧を施された茶盌が美しくないのと同じですね。


 故に私は近代【すきしゃ】や現代【すきしゃ】を【数奇者】と書いては如何かと思うわけです。


 少なくとも、私はそう書き分けよう!と。


 近代数奇者、現代数奇者。

 そして、名人(名仁)・茶湯者・数寄者。


 なんとスッキリすることでしょう。