茶湯御政道というと、「信長か!」と思う人がほとんどですが、実は信長の茶湯御政道は、二番煎じでして、最初は全く別の人物が始めたものです。

 

 それは、足利義教。 

 

 

 足利将軍家第六代の公方。

 

 織田信長から百年ほど前の人物で、ギリギリ戦国に含まれない室町中期の将軍です。

 ※室町前期は南北朝、室町後期は戦国。

 

 彼が茶湯御政道を始めたのは、将軍権力の復活を企図してのことであったと言われます。

 

 というのは、彼が将軍になるまでの間、管領がその権力を行使する状態になっており、将軍の権威が低下していたからです。

 

 彼は将軍親裁と権威の回復にとどまらず、中央集権を目指していたのではないかと考えられます。それは、度重なる有力守護大名の家督相続への介入から、その弱体化を狙っていることが伺えるからです。

 

 室町幕府はその成立経緯から、非常に不安定な政権で、室町時代は鎌倉時代よりもさらに戦の多い時代となっています。しかも、鎌倉時代に比べて戦の規模が大きくなったのは、その背景に農業生産力の向上や温暖な気候があったと言われています。

 

 また、貨幣経済の浸透によって、経済規模が拡大し、日明貿易などによって、商業都市がいくつもできていったこと、南蛮貿易が始まり、西洋の新しい文化に触れることで、特に工業製品の改良が進んだことも挙げられます。

 

 その中で、将軍家は畿内への影響力しかなく、常備軍3万が領国に散在するという状態であり、大きな勢力とはなり得なかった訳です。

 

 このため、義教は、大名により細かい序列を作って、統制しようと考えます。これが、茶湯御政道の発端で、唐物を飾り、それを間近でみることができる上の席をこぞって望んだと言われます。

 父・義満が集めた北山御物を惜しみなく飾り、触れさせ、ときには下賜することで、大名たちを従えた訳です(もちろんそれだけではないのですが)。

 

 信長が戦功の代わりとして特に茶器やその他の茶道具を褒美として与えたのに対し、客順を争ったということは、時代が違うとはいえ、茶湯御政道の在り方が大きく違っていたからではないか?と思えます。

 

 これは、信長は、茶席を許可制にし、自分の直臣の統制に使ったのに対し、義教は将軍家に使える大名の制御や貢献の見返りに茶席に招いたということであり、スタイルも関係性も大きく異なっています。

 茶の湯の視点からみる歴史というのもなかなか面白いものがありますね。