堺市博物館の『研究紀要35号』に掲載された「千利休の家業に関する一考察」という論文が面白い。


 この論文は


・利休の家業がなんであったか

・利休は魚屋を屋号としていたか

・魚屋は「ととや」か


 という3点について言及した論文です。


 結論から言うと


・利休は納屋(貸倉庫業)を家業としていたことは、財産処分状に「しほ魚座ちん銀百両也」とあり、塩魚(長期保存可能な魚介加工品)を取り扱う座に倉庫を貸していたことが明らかです。


・利休が屋号を魚屋としていた一次史料は存在せず、死後六十年以上経ってからの『千家由緒書』を論拠としている。また、同時代に魚屋弥次郎や魚屋良向がおり、利休の甥である渡辺道通が魚屋立安を名乗っている。


・「トゝヤ」を「魚屋」と書いたのは『大正名器鑑』が最初。それ以前は「斗々屋」。江戸初期は「トゝヤ」。室町期には「うをや弥次郎」の記述がある。利休だけが「ととや」と訓むのは不自然。


 となっている。


 現状の魚屋説や魚問屋に配慮してか、「海産問屋であった可能性もある」としていますが、どうにもその匂いはしません。


 利休は茶道具の鑑定や売買で財を成し、利益を求める商人として成り上がっていたことが伺えます。


 秀吉に重んじられるまでは、それほど富貴ではなかったと考えられる(とは言っても納屋衆に名を連ねることが出来るのは、十分に豪商ではある)訳です。


 さらに言えば、渡辺道通は父を渡辺与兵衛といい、阿波の人です。渡辺与兵衛は蜂須賀正勝に仕え、天正年間に亡くなり、道通は利休に育てられます。のち、道安の右腕となって魚屋を屋号として明治時代まで直系が残っていたそうです。


 この論文に辿り着いたのは、『数寄の長者』の序章を第一服にして、別の序章を付け加えるために、道安の事績を調べていたところ、渡辺道通(魚屋立安)と塩屋が道安に関わりあるとする豊田宗瓠の著書『阿波千家 阿波の名跡 道安・塩屋・魚屋の研究』からの話でした。


 私の小説『数寄の長者』でも、「魚屋(ととや)」ではなく、「千屋(せんや)」としていますが、案外いいところを突いていたのかも知れません(笑)