顕本寺の住職さんが、私をフォローしてくださっておりまして、不躾に「大永年間~天正年間の住職を教えてもらえませんか?」というお願いに、速攻で答えてくださいました。

 

 本当にありがとうございましたm(_ _)m

 

 

 さて、早速顕本寺のことを小説に盛り込もうとしまして、改めて見本寺を調べました。三好氏とは関係性が強く、今後も度々出てきますのでね!

 

 大永年間ごろ~天正年間は、現在の甲斐町山之口の辺りにあったそうで、この甲斐町の北にある大小路筋が摂津と和泉の国境になります。そして、堺が北庄と南庄に分かれる境目でもありました。

 

 このあたりには開口神社があり、顕本寺はこちらにほど近い、現在の山之口商店街にあったと推察されます。

 

 開基と開山の日隆と日浄がどんな人なのか気になって調べましたら、この日隆という方は、本能寺も開いちゃってます。各地で法華宗の寺を開いている凄い方なんですね!

 

 しかも、足利一門である桃井氏の出身。

 父は桃井尚儀。母は斯波義将(よしゆき)の女(むすめ)。

 兄は桃井直之。

 

 日浄は日隆の従兄弟(叔父・斯波義盛の子)だったという記述はあるのですが、この斯波義盛という人物が調べても出てこない。まだまだマイナーな人物なのか。

 

 大永年間当時は日演上人。

 永正八年(1511)に住職となり、天文五年(1536)歿。

 この時期に三好氏と濃厚な関係がありますから、何度も登場していただきましょう。

 

 『数寄の長者』の初登場は天王寺屋宗柏といつも囲碁を打っているという話だけの登場です。千熊丸の学問の師として登場してもらうといたしましょう(ということは利休も出てきます)。

 

 ちなみに旧顕本寺と利休屋敷(阪堺電軌阪堺線・宿院駅近く)は目と鼻の先でして、のちの今井屋敷も近くです。

 

 天王寺屋津田宗及が立てた大通庵は摂津の国に入ったところにあり、大小路の北側になります。邸宅はその通りを挟んだ南東側にあったと言われています。

 まぁ、街はつながっておりましたのであまり気にはならなかったでしょう。

 

 場所は堺市立熊野小学校付近に現在は大通庵跡の石碑があります。



 顕本寺の位置は明確に解っていませんが、山之口の西側だとこの辺り。東側だとこの向かいあたりではないかと思われます。

 小説が深まりそうです。