われわれが普段これはこの色と思っているものは物に光が当たって反射し、拡散しなかった光が目に届いているからその色に見える――ということを意識せずに、その色だ!と思っていることが多いと思います。


 実際には物質の表面において光は乱反射し、色の屈折率の違いによって光は拡散し、拡散しなかった光の色をその物質の色だと認識しているに過ぎません。


 つまり、光源が変われば物質の色は変化するということになります。


 しかし、現代において、物をみるときに蛍光灯を光源として見ていることがほとんどです。これは、茶道家としてはいささか情けないと思っていました。


 何故かといいますと、蛍光灯は1859年に誕生し、日本では1939年に東芝がGEの指導で実用化したもので、家庭用が普及するのは1955年以降のことです。つまり、ここ半世紀強ほど最近のことで、我々の見ている色と、昔の人たちが見ている色が異なるからなのです。


自然光は白くない

 こう言うと、何を言っているのか?と、思う人がいるかも知れませんね。しかし、光は温度によって色が変わることをご存知ですか?


 光は最も高い温度で初めて純白となりますが、温度が下がると黄色味を帯びます。我々が見ている蛍光灯の色はやや青味を帯びていて、自然光との比較で白く感じているに過ぎないのです。


 コンピュータではRGBという光の三原色を合成し、それぞれ256階調で構成して、256×556×256=1677万7216色を表現しています。その中で自然光はやや|B《ブルー》が弱く、黄色みがかって表現されます。


 この自然光下の白が人類史上本来の白として認識されてきた色であることに注意が必要です。


 そうなりますと、道具は自然光下でみなければ、本当に見たことにはならないのではないでしょうか。少なく友学術的ではなく「茶道において」は。極論ではあるが、利休らが、鈍翁らが見た色というのは、この自然光の下の色のはずです。


 ですが、我々は本当に自然光の下で物を見なくなってしまいました。


闇を恐れ、闇に抱かれた人類

 人の歴史とは闇に光あることの歴史でもあります。


 松明に始まり、焚火、篝火、蠟燭、菜種油、灯油、ガス燈、電球そして蛍光灯。それらは闇を切り裂き、任意に闇に戻れます。そう、人類は闇を支配しようとしてきたのです。


 人は眠るときに明るいことを望まない(偶に明るくないと眠れないという人が居るがそれは例外です)ですね。闇を支配したが故に安心して闇の中に身を投げ出せるようになったということです。それまでは、獣たちに、盗賊たちにいつ襲われるか分からない恐怖が闇には存在していました。故に人は村を作り、家を作り、燈りを求めたといえます。


 文明人にとって、闇は恐怖の対象ではなく、安心して眠れる象徴になったことを示したのが、利休の昏い茶室ではなかったでしょうか。


 待庵の闇さは他の茶室と比べても群を抜いています。そこに微妙に異なった黒い道具が並ぶと、案外浮き立って見えるのです。


 完全な闇ではない昏さなだけに、黒という色の違いがはっきりとしてきます。


 そして、昏さに距離感を喪失することをによって狭い茶室が広々と感じられ、闇に抱かれるような安心感を与えてくれます。


 利休の目指したのは、物質本来の色を見よという試みであっのかも知れません。


本当の色とは

 利休の考えた闇の帳の中で物を見るというのは、物の本質を目に頼らず「みる」――すなわち五感で味わうということではないでしょうか。


 心で見るからこそ、物の価値の軽重が分かり、触れるからこそ目で見ただけでは分からないものが看てとれて、研ぎ澄まされた空間の中で本質を見極められると考えたのでは?


 虚飾を剥いで無駄を極限まで省いた利休らしい内面性の追究だったとすれば、確かに禅に繋がるものを感じます。しかし、これは非常に分かりにくいですね。


 いわゆる内面世界の具象化であり、外面世界の抽象化でもあります。それは即ち、具体的な図案を用いない言葉の内側にあるイメージを引っ張り出すものです。


 言われてみれば、近年の道具は蛍光灯の下で映える道具ばかりです。それ故、分かりやすい明示された季節感が図柄となって道具を飾っています。


 これらを自然光の中で見たとしたら……毒々しくならないでしょうか?


 茶人も茶道家も作家も職人も問屋も道具屋もそろそろ蛍光灯の下から這い出たほうが良いのかもしれません。