いつも愉しく拝見させていただいている、こちらの「茶の湯こぼれ噺」の野崎幻庵の態度は、おそらく現代においても特に三千家の方は眉を顰める言動だと思います。

 

 ですが、私はこの野崎幻庵に共感しました。

 

 川辺宗無の道具立てには、「物語の深みが感じられない」のですよね。

 

 掛軸や日付(干支)から蓋置一つにも物語を付けるのが数寄者本来の愉しみ方。近代数寄者はそこに名物を盛り込むことで、派手にやってきました。

 

 巧者と呼ばれた方々はこの物語の折り込み方が上手なんですよね。

 

 それが、明治頃から「極書のあるものを使う」という方向性に変化していきます。

 

 茶人が道具屋に教えた時代は終わり、道具屋に茶人が教えてもらう時代となって、物語を盛り込めない茶人が増えたということなんでしょう。

 

 既に礼儀作法や歩き方すら知らずに茶道を習い始める人ばかりの世の中ですから、野崎幻庵の時代よりひどい状態になっているとは思います。

 

 しかし、流儀至上主義、家元至上主義の人は野崎幻庵の時代よりももっと増えていて、「つまらない道具組み」というのは、結構横行しています。

 

 名物など一つもなくていいのです。

 そこに想像の翼を広げられる「物語」が添えられるなら。

 

 いいものを持ってなきゃ!という物を至上とする方々は「茶道の精神性」を何処に置いてきてしまわれたのでしょうねぇwwww