「行き着く処は同じだから」

 

 とは家元先生の言。

 

 私が家元会館の教授会にお連れした、裏千家の故・茶友に対して仰った言葉。

 

 流派が違うということは、所作やその意味や意義付けが違うということですが、「行き着く処」は同じということですね。

 

 つまり、私たちは「美味しいお茶を提供する」ことが究極的に絶対なわけです。

 

 ところが、所作にこだわって、美味しさを損なったりしている場合があるように思います。

 

 この「こだわる」ということば、実は悪い意味の言葉です。

 

こだわ・る〔こだはる〕

[動ラ五(四)]
 ちょっとしたことを必要以上に気にする。気持ちがとらわれる。拘泥(こうでい)する。「些細(ささい)なミスに―・る」「形式に―・る」
 物事に妥協せず、とことん追求する。「素材に―・った逸品」
 つかえたりひっかかったりする。
「それ程―・らずに、するすると私の咽喉を滑り越したものだろうか」〈漱石・硝子戸の中〉
 難癖をつける。けちをつける。
「郡司師高―・って埒(らち)明けず」〈浄・娥歌かるた〉
[補説]2は近年の用法

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

 

 というのが辞書の意味です。

 現在は2の意味で使われることが多くなりましたが、これって何時頃からのことなんでしょうか。

 

 こだわるは「拘る」で、「扌」+「句」。

 

「句」は「曲がったカギがひっかかった」象形と「口」の象形の合字。

 

 「言葉を区切る・曲がる」の意味になり、それを動作であらわすと「かぎを引っ掛けてとめる」という動作を意味するようになったもので、そもそもいい意味がありません。

 

 では、この「物事に妥協せず、とことん追求する」という意味の言葉は本来「究める」や「きわめつけ」という言葉が用いられていましたが、キャッチコピーで「こだわりの一品」などと使われたことで一気に広まりました。

 

 このニュアンスは本来間違いなので、私は「こだわりたくない」と思います。

 

 美味しい茶を点てられるなら、何でも試す。

 それが私の茶風です。