「二代将軍となる前の秀忠が慶長10年に織部のもとを訪れ、「利休の伝える茶法は武門の礼儀が薄い。その旨を考えて茶法を改め定めるように」と命じたとする記載がある(記事より)」

 

 とのこと。

 

 こうすると、面白いことが浮かび上がってきます。

 

 そう、うまく行かなかった「宗旦の茶頭出仕の理由」です。

 簡単に年表を作りました。

1604 慶長10 徳川秀忠、古田織部に武家茶の創出を命ず  
1605 慶長11    
1606 慶長12    
1607 慶長13    
1608 慶長14    
1609 慶長15    
1610 慶長16    
1611 慶長17    
1612 慶長18    
1613 慶長19    
1614 慶長20/元和元    
1615 元和2 大阪夏の陣 古田織部、切腹  
1616 元和3 徳川家康、歿  
1617 元和4    
1618 元和5    
1619 元和6    
1620 元和7    
1621 元和8    
1622 元和9    
1623 元和10 徳川家光、将軍就任  
1624 元和11/寛永元 小堀遠州、伏見奉行に任ぜらる  
1625 寛永2    
1626 寛永3    
1627 寛永4    
1628 寛永5    
1629 寛永6    
1630 寛永7    
1631 寛永8    
1632 寛永9 徳川秀忠、歿  
1633 寛永10    
1634 寛永11    
1635 寛永12    
1636 寛永13    
1637 寛永14    
1638 寛永15    
1639 寛永16    
1640 寛永17    
1641 寛永18    
1642 寛永19   宗左、紀州藩に出仕
1643 寛永20    
1644 寛永21    
1645 寛永22/正保元    
1646 正保2    
1647 正保3 小堀遠州、歿  
1648 正保4/慶安元    
1649 慶安2    
1650 慶安3    
1651 慶安4 徳川家光、歿  
1652 慶安5/承応元   宗室、加賀藩に出仕
1653 承応2    
1654 承応3    
1655 承応4/明暦元    
1656 明暦2    
1657 明暦3 明暦の大火  
1658 明暦4/万治元   宗旦、歿
1659 万治2    
1660 万治3    
1661 万治4/寛文元    
1662 寛文2    
1663 寛文3    
1664 寛文4    
1665 寛文5 石州、茶道指南役に就く  
1666 寛文6   宗守、高松藩に出仕
 千宗左が紀州公に出仕するのは秀忠が亡くなってから実に十年後。

 

 
 つまり、千家の茶は武家にはふさわしくないと秀忠が考えていた訳で、その影響が薄れるまで千家は表舞台に出てこれなかったのではないでしょうか。
 
 家光は小堀遠州に師事していたといわれますが、秀忠ほど武張らずとも将軍権威を示すことができており、参勤交代や外様の取り潰しなども容赦なく行った方なので、あまり茶道による統制に重きを置かなかったのではないでしょうか。
 
 それが、結果として千家の出仕の道を開いたように思います。
 
 そして、さらには、秀吉が利休と「茶道で対立していた」とされる要因であった「武家茶の創出」が秀忠であったわけですから、秀吉と利休の対立は「茶道とは無縁のところ」であった可能性が益々増してきました。
 
 さらなる研究の進展が期待されます。