茶道の流派で、千利休を経由しない流派は、東山流、珠光流、堺流、藪内流だけで、あとはすべて利休を経由した流派となります。

 

 その中で「千」を名乗っているのは三千家のみです。

 

 では、この三千家、利休の後裔か?というと、定義にもよりますが、血統的には違います。

 

 三千家は利休の『養子』で血縁のない少庵が入婿して「分家」した京千家の後裔です。

 

 では、利休の実子はというと道安で、これは嫡子であり「堺千家(本家)」を継承しましたが、跡継ぎなく断絶しています。

 

 血統的には、利休に弟がおり、宗巴(宗把)といい、この息子が紹二といって利休の茶杓の下削りをしていたそうですが、神谷宗湛を招いて茶会を開いたりしていますから、茶道をしていたようです。この系統は奈良屋を名乗っています。

 

 江戸前期にも斗々屋は残っており、利休の血族が残っていたのではないかと思わせる訳ですが、商家というのは、婿養子に継がせる事が多く、血統がのこっていたとは言えないかもしれません。

 

 一説には、利休の庶長子が田中宗慶であるという話もあり、もうならば、樂家が利休の血統であったとなるのですが、残念ながら、一入の跡を、雁金屋三右衛門の子が継いでおり、ここでも血統が絶えています。

 一入の庶長子・一元が玉水焼を開いていますが、長男一空、次男任土斎までが直系でその後は弟子の伊縫楽翁が継承したためココでも途絶えています。

 

 田中宗慶の子には宗味もおり、庄左衛門と名乗り、長次郎の娘を妻としていますが、歴史の表舞台からは消えています。のち、奈良屋宗味という名前が出てくる落語もあるんですが、この人物創作?

 

 利休には兄がおり、康隆といい、元亀三年(1572)に行われた父与兵衛の三十三回忌の法要は施主が康隆だったという記録があります。この系統が後の斗々屋の可能性があります(利休は魚屋、江戸期は斗々屋)。

 また、水落宗恵(みずおち-そうけい)という弟もいて、天正年間(1573~92)にしばしば茶会を開いていることが分かっています。

 ただ、利休の血統は途絶えても、その霊統(ひすじ)は脈々と受け継がれています。