茶の道は禅のみにあらず法華あり
ひとえに禅茶といふはあやまり 道舜

 

 禅茶の流派の方には「坐禅」を勧められるのですが、ウチも私も法華茶を目指しているので、点前の中で無心になれるのですよ。

 

 これは私が子供の頃から勤行唱題を仏壇の前でひたすらあげるということを繰り返してきたためですが(笑)

 

 毎日三十分、時には8時間微動だにせずひたすらにあげておりました。

 実は坐禅も、勤行唱題も、このスイッチをいかにつくるか?という修行です。

 

 坐禅が自分と宇宙と仏を瞑想で感じるものであるなら、勤行唱題はひたすらに唱えることで自分の中の仏性に気付き、それが世界にも宿り輪廻転生し、十界互具していることを涌現させるものです。

 

 禅は権教であり、法華は実教です。
 

 権教は時代や大衆に合わせて変化する教えです。実教とは時代や大衆に迎合せず普遍の真理を体現するものです。

 

 どちらも山の頂上を目指したものですが、一直線に登りつめようとする法華は苦難が大きいのに対し、緩やかに体を鍛えながら山をぐるぐると回る禅という比較が成り立ちます。

 

 煩悩即菩提。

 

 欲求があるからこそ人は高みを目指せます。
 

 その欲求を情熱に純化することができるなら、その方法は問う必要がありません。

 

 禅であろうと法華であろうと山の頂上にたどり着くには、どれであろうと己が道を進めばよいのですから。

 

 ただ、禅だけを至高のものだと思うなかれ。

 

 そうした中で、規矩を無視したり、規矩など不要と言い切ってしまう人がいます。私にするとなんと傲慢なのだろうか?と思ってしまうのですが、そういう人はそれを言う時点で、茶を支える柱を一本折っているに等しいと言えます。

 

 以前、

 

 

茶の道を禅ばかりとは思ふなよ

仏の道の根柢を知れ 道舜

 

 

 という歌を詠みましたが、今回ははっきりと法華を歌いました。

 法華の教えには

 

「行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候。力あらば、一文一句なりともかたらせ給うべし」

 

 というものがあります。

 

 行学の二道の行は修行(稽古ではなく実践)であり、学は規矩と稽古です。

 

 その二つがあって自身に仏性を涌現させるのが法華の茶。

 

 禅が肉体的な苦行を求めて外から身を修めるのに対し法華は内から修めめます。

自身を鍛えるから過剰に自信が肥大化してしまい、自らを真理を超える者だと勘違いする人が現れる。

 

 そういう輩を生んでしまうのが禅の限界と言えるのでは?などと思ってしまうのですが(笑)

それは法華的にいえば増上慢であり、驕りですから、声聞の心が涌現してしまっているのでしょうね。

 

 自分は決して真理には及びません。されど新たなる真理を見つけることはできます。それだけのことなのです。

 

 禅と法華では、無心のなり方にも思想の違いが如実に現れているのが面白いです。

 

 禅では「坐禅の形」によってスイッチを作り、「無心」になりやすくしています。

 

 法華ではいついかなる時も「無心」になれるようにしています。

 

 どちらがいいということではありません。

 

 方法論が違っているだけなのです。

 

 私個人としては法華の方が茶に即うと感じています。

 

 三世間に十界の差異あり。

 

 三世間とは、国土世間・衆生世間・五陰世間のことで、五陰とは簡単に言うと個人の性格や身体、衆生は地域社会の傾向性、国土は民族の志向性を表しています。

 

 十界とは、天界(喜び)、人界(平常心)、修羅界(怒り)、畜生界(本能・欲望)、餓鬼界(飢餓・貪欲さ)、地獄界(恐怖)、声聞界(学び)、縁覚(自分の中で悟ったと思っている状態)、菩薩界(大衆のための行動)、仏界(悟り)のことで、精神の状態を表す言葉です。

 

 三世間それぞれに十界が内包されており、十界にもそれぞれ十界があり、それぞれに違っていることを表します(ホントは十如是というのもありますが長くなるので省きます)。これは状態のことであり、感情は簡単に区別できるものではなく揺らぐものであり、容易に他の状態に変化するということも表しています。

 

 様々な人が集まる中で八風に冒されぬ人を賢人というのであるから、その場で瞬間的に無心にならなければいけない訳です。

 

 八風とは修行を妨げる出来事のことで、目先の利益、名誉を受ける、称賛される、様々な楽しみ、肉体的金銭的衰え、不名誉を受ける、中傷される、様々な苦しみのことです。

 

 これらに冒されないとは、これらがあっても修行を怠らないことをいいます。

 

 坐禅でもその境地には辿り着く。法華で日常全てが修行であるというだけなのです。

 

 ですから法華には坐禅がありません。