利休百首の「小板にて濃茶をたてば茶巾をば小板の端におくものぞかし」が意味するもの(廣田吉崇著)』という論文を読ませていただきました。

 

 感想としては「最初から荒目板に限るということを間違いと決めつけている」ように感じられました。

 

 よく研究しておられ、イロイロな考察がなされているのですが、一つ抜け落ちているように感じたのが

 

「当時は現代よりも規矩がきちんと守られていた」

 

ということと、唐銅の写風炉が当時は存在せず、

 

「概ね土風炉であった」

 

ことです。

 

 利休が土風炉に荒目板と定めて以後、当然、土風炉には荒目板が用いられます。

 この時代、まだ現在のような唐銅の写風炉が作られておらず(作られるようになったのは江戸中期以降)、土風炉が主流です。しかも、現在のような漆風炉ではなく、燻風炉(黒陶)のものであった訳です。

 

 とすると、利休以後の茶人の日常的な風炉は土風炉であり、用いられる小板は荒目板であったということを考察することは容易です。

 

 そこで「伝承の間違い」が起こっていないかどうか?という考察も必要であるように思います。

 

 利休時代の再現と、何故茶巾を小板に載せるのか?という考察が、この問題において最も重要なことになる訳です。

 

 荒目板は利休が考案したものであるという前提で話を進めます。

 小板は紹鴎が考えたものです。当初の小板は現在の大板のことでした。

 その後、現在の小板が作られるようになり、利休時代に登場するのが荒目板です。

 

 荒目板は、まるで杉の砂摺りのように凹凸が表面にあり、水が輪染みになりにくく、広がって溝に流れるように作られています。目の粗い方を点前にすることからも、打ち寄せる波打ち際を模したものであり、熱が溜まりやすい土風炉の熱を小板に逃がさず、接地面を少なくし、風通しが起きるようにした工夫であることが推察されます。

 

 砂摺りは、木地の棚に爆ぜのある焼締を載せないという規矩を回避するために作られた技法であり、水の染み出す焼締の水指から染み出しても輪染みになりにくいようになっています。

 

 こうした工夫は利休の本領であり、そこにこそ点前が変化するという意味と意義が見いだせます。

 

 まず、手が違うということは点前が違うのではなく「道具が違うのではないか?」と考えるべきであり、茶巾を水指蓋上と小板上とに置き分けるのは「道具によって手が異なる(水指上の方が古い点前である)」と考えるほうが自然なわけです(長板や台子では茶巾は水指上にするので)。

 

 さて、皆さんはどうお考えになりますか?