「型を貫くは己も他者をも苦しめるに似たり」
これは織田有楽斎の言葉として「へうげもの」で扱われておりましたが、私などに対してこういう評価を持つ人は多いのではないかと思います。
私は格や規矩に煩いので(笑)
ですが、有楽斎の言う「型」とは、そういうことではないんですね。
ストイックな生き方を茶道にも全面的に表すことを言っています。
禅というのは、茶道などと非常に相性がいいことは事実です。
ですが、それを客に押し付けるような在り方は如何なものか?と思うわけです。
そもそも、大衆禅(大乗禅)が出てくるのは白隠からですので、それまでは小乗禅――すなわち己が一人の修行の禅なのです。
つまり、亭主の心を鍛えるべき禅を、客にまで求めては、本末転倒。
有楽斎のいいたいことはそういうことではないかと。
利休も途中までは「笑い」を大切にしていました。
が、晩年になるにしたがって、その理想の追求は鬼気迫るものに変わっていったようです。その集大成が「二畳の茶室」な訳です。
それは、行き過ぎた他者を許容できない茶になりかねない危険性をはらんでいると私は思います。
利休が織部に「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と諭すシーンが「へうげもの」のありましたが、晩年の利休の突き詰めすぎ感は、まさにこれではなかったか?
茶聖として崇めるだけが利休を敬うことではないと私は思います。
利休を等身大の人間として捉え、その功罪を見直すことこそ、真に利休を敬うことではないでしょうか。
私は「一笑一笑」という「へうげもの」の利休像が好きです。
鬼気迫った利休像は好きではありません。
禅は亭主を鍛えるもの。笑いは客足を育てるもの。
格は道具を調えるもの。規矩は点前を整えるもの。