茶道において異端であるとか正統であるという話は「規矩を守っているかどうか」においては大切ですが、「禅を主軸に据えるかどうか」はそんな比較論にはなりません。
何故ならば、侘茶の開祖である「村田珠光は禅宗の信徒ではない」ですし、「武野紹鴎もまた禅宗の信徒ではない」ですし、利休の最初の師とされる「北向道陳もまた禅宗の信徒ではない」からです。
そもそも茶道の開祖である能阿弥は阿弥号を称していますから、時宗系か一向宗系です。
それで「禅が茶道の正統の証」などというのは一笑に付されることはおわかりでしょうか。
茶道の歴史をきちんと学べば「禅だけが茶道の本道ではない」ことが解ります。
では、何が必要なのでしょう?
それは、『自分が何を正しいと思い、どうしてそれが正しいと思うのか』です。
私などは『茶禅一味』を理解はしますが、それは私の茶ではないのです。私の茶は『法華茶』を基とするからです。
都流の家元荒木家は、先祖代々法華宗です。
北向道陳も荒木氏で、法華宗です。荒木村重もそうであったと思われます。
でも別に、基督教でもいいと思います。それがその人の選んだものであれば。
さて、法華の教えの中に
『励行学之二道可候、行学絶仏法不可有(行学の二道励み候可し、行学絶えなば仏法有る可からず)』
という言葉があります。
まさにこれは茶道にも当てはまります。
現在は禅茶ばかりが持て囃されていますが、室町後期、法華茶も盛んでした。名の知られたところでは、利休の最初の師である北向道陳、荒木道薫、辻玄哉、川上不白など、法華の信徒であることがわかっている人も居ます。
私は法華の信徒でもありますから、仏法の奥義は法華経であるとも思っておりますし(現実的に禅宗でも葬式に多大なお金を払った場合は法華経を唱えるんです)、茶道の根幹を為すのは禅ではなく『仏法』だと確信しております。
その方法として禅を選ぶのも良いと思いますが、禅だけを正統とするのは『偏見』と断じます。
入口が大衆的かつ修行を主とする禅が『道』と相性がいいことは解りますが、私はそうしたストイックさが茶道を人から離してしまうのではないでしょうか。
煩悩即菩提。
ストイックさよりも、欲を欲として俗事にしてしまわず、純粋なる情熱に昇華して、道に打ち込むことこそが、行学を極めさせる道。それはストイックな苦学ではなく、『自ら愉しみ、他人に愉しみを与えられるもの』でなければ、人はついてこれません。
辛いから苦しいから自分は素晴らしいところに行けるのだなどと考えては『井の中の蛙大海を知らず』でしかありません。『されど空の蒼さを知る』であるためには、そこを突き抜ける必要があるのです。
その辛さも苦しさも『自らの欲である』ことを見失ってはいけません。自分が辛く苦しい物が好きだからといって、他人にそれを求めるのが仏法でしょうか?
違いますね。
釈尊は人のレベルに合せて、教え方を変えました。法華経でいう五重の相対があります。
内外相対
内道と外道(がいどう)つまり、仏法とそれ以外の道を比較させます。
大小相対
大乗と小乗を比較させます。
権実相対
権教と実教、つまり仮の教えと本当の教え、神通力などの例えを用いた他力本願の教え(法華経以外)と神通力を用いない自力本願の教え(法華経)を比較させます。
本迹相対
法華経にも迹門と本門があり、法の整理を行った迹門と、本来の悟得の在り方を語る本門があり、その比較をさせます。
種脱相対
釈尊が説いた『下種(仏法の種を人に植えたり、最初から持っている種を自覚させること)』と『解脱(仏法の種が実り、熟して収穫されたこと)』を比較させます。
つまり、人の境遇とその人の理解力によって伝えるべき教義が異なるということでもあります。
法華経的に言うと、三世間(五陰世間=身体や精神などの人間そのもの、衆生世間=人間が暮らす地域・家族、国土世間=社会全体や国といった大きな枠組み)には十界の差異がある……という難しい言い方になります(笑)
つまり、10×10×10=1000でそれが三つあるので三千。一念三千とか三千世界というのはここから来ています。
茶道の教え方も同じであり、その人のレベルに合わせて教えることが違います。
教えてもらえなかったのは先生が悪いのではなく、自分に受け止められるだけの境涯(理解力)がないということであり、己の勉強不足や伎倆不足であるということになるのです。
「過去にしがみついている」のと、「過去の教えを本当に理解し、実践し、固定観念を打破しつつも規矩を守って、新たな規矩を見出していく」のかは大きく違います。
規矩を本当に理解せず、規矩を否定し、改めてしまうのは、「過去にしがみついている」のと同じです。