現代にしかできないことをやっているからといって「時代を取り入れている」とは言えない。それでは「現代に囚われている」に過ぎなません。
 

 珠光や利休の時代に行われた和漢を紛らわすことと同じように、現代は古今を紛らわすことが肝要になる。

 

 規矩を否定することも過去に囚われることに他ならず、それは守破離の破の意味を取り違えています。破るのは規矩ではなく、凝り固まった固定観念で有る。定石を打ち破る物語を求められるということなのです。

 

 例えば、サンタの絵やトナカイ、天使の絵が描かれた道具を使い、茶室で茶会をしたところで、それは「クリスマスを取り入れた」のではなく「上辺だけ取り繕った安易さ」に過ぎません。

 

 そもそも『取り入れる』とはそのものを絵付したり、そのものを取り上げることではないからです。それでは子供騙しにすぎません。

 

 幼稚園ぐらいの子供たちを喜ばせるならいいでしょう。ですが、大人に向けるなら、サンタやトナカイでも良いし、キリストやマリアなどの宗教画風の絵付がされた洋食器を用いて、教会で立礼棚を使った道具立ての方が余程素晴らしいと思いませんか。ただし、それは茶道がキリスト教に取り入れられたことになりますが。

 

 それならば、青漆爪紅でクリスマスカラーを、十文字割高台などでクルスを、馬上杯で聖杯を、樅の木の棗でも風炉先でも良いし、鹿角の茶杓でトナカイに見立てたり、三人形(三閑人)蓋置で東方の三賢者を表し、白い志野の水指に杓立・建水と揃えた皆具も雪景色となって良いのではないでしょうか。

 

 過去に囚われるなかれ、現代に囚われるなかれ。

 

 そうなると「過去との訣別」とはなんでしょうか。

 

 それは自分のオリジナリティ(独自性)を見つけることではないでしょうか。

 

 だからといって、いたずらに過去を否定することではありません。

 過去の誤りを正し、規矩を守り、新たな組み合わせや今までにない素材・意匠などを取り入れていくことこそ「過去との訣別」なんです。

 

 そこには骨董も近代物も現代物もありません。等しく道具があるだけなのですから。

 それにしても、不昧公の「諸流みな我が流」とは蓋し名言ですね。

 私の茶風というかスタイルはこれなんですが、言葉にするとストン!と落ちますねぇ。