武野紹鴎と利休の関係を知るには、少壮の利休(34歳以前/天文年間)に贈った『侘びの文』という消息が肝腎だと思います。これは、当時、北向道陳に師事していた利休に対して、紹鷗が贈ったもので、その時期の利休は唐物名物茶に傾倒していたと思わせます。
この紹鷗の「侘びの文」こそ、利休が侘び茶に目覚める契機になったのではないでしょうか。
実は「わび」という言葉を使い始めたのは武野紹鴎であると言われます。
書院から離れた珠光の数寄屋を「寂敷」と「侘敷」に分類したのです。
これが「広間」と「小間」です。
紹鷗は、三畳台目、二畳台目の茶室を生み出しますが、これが後に利休が二畳、一畳台目の茶室を生み出す基となります。
村田珠光が「和漢のさかいをまぎらわす」と言ったように、利休は紹鷗が明確に別けた「侘敷」「寂敷」(※1)のさかいをまぎらわすように侘びと寂びを渾然一体として侘びを主軸に据えた茶風を確立していったと考えられます。
利休は、天文七年(1538)、十七歳で東山流の書院茶をくむ北向道陳に師事しています。
その六年後の天文十三年(1544)2月に、有名な京の茶人・松屋久政が堺を訪れたとき、道陳の勧めで久政を主客に初めて茶会を開いています。このことから、廿三歳当時、北向道陳に師事していた事がわかります。「善好香炉」や「珠光茶碗」といった名物を用いて茶会を開いているところに、後世の利休のイメージとはかけ離れた茶会を催していたとされます。
こののち、若い利休は一目置かれるようになり、今井宗久や津田宗及らと交流を深めていくのをみた北向道陳は、得意になりすぎないようにと、武野紹鴎に利休を紹介したとされていますがいつ頃のことか不明です。
ではここで、その時期を検証してみましょう。
弘治元年(1555)閏十月廿九日、武野紹鴎は歿します。享年五十四。
その七年後、北向道陳が永禄五年(1562)に歿しているので、利休が紹鷗または辻玄哉に師事したのはそれ以前となります。武野紹鴎に師事したとなると、天文廿四年(1555)以前ということになりますが、それですと、利休が北向道陳に師事したのは十七年間となります。
また、辻玄哉が天正四年(1576)に歿しているので、『山上宗二記』にある二十年の師事を考えると、遅くとも弘治二年(1556)には武野紹鴎または辻玄哉に師事していることになります。
また、利休が北向道陳に師事したのは天文七年(1538)。それから台子の伝授まで二十年掛けて受けたとすると弘治四年(1558)に印可を受けていたと考えられますが、これだと、辻玄哉に二十年師事したことになりません。
私的な解釈として北向道陳に師事していたのは十五年間。つまり、天文廿二年(1553)までであったのではないか?と考えます。天文十三年(1544)に初めての茶会を行っており、この段階で、現代の奥伝レベルを終えていると考えられます。
おそらくは、天文廿二年(1553)に武野紹鴎より書を受けた利休は、道陳より印可を受けて紹鷗に弟子入りし、初め辻玄哉に教導されたものの、短期間で頭角を表し、紹鷗が利休に指導し始めようとした矢先の紹鷗の死であったように思えるのです。
これであれば、「辻玄哉が利休に小壺大事を相伝した」こと、また「小壺大事に至るまで二十年掛かる」ことが矛盾することはありません。
武野紹鴎への慕情は、利休が武野紹鴎の弟子でなかったからこその強き希求であったように思えるのです。
※2 利休の生年は大永二年(1522)