茶道の中で主流をなす「禅」。
禅さえ語っていれば茶道の真髄を掴んでいる……とでも言いたげな言い方をする人がいます。
私はその時点でその人は茶の本筋が理解できていないと考えます。
なぜならば「茶の湯」とは「自分の内面と向き合うことは大事ですが、自分の内側で完結してはならず、外とのつながりを必要とするもの」であると考えるからです。
これは、自流さえ学んでいればいいと考える人のも同様のことがいえます。
たしかに台子を学ぶまでは自流だけのほうが良いかもしれません。
しかし、台子を学んで以後は、禅にこだわらず、自流にこだわらず、広い視野を持たねば「誰かの猿真似」で終わる……でしょうね。
それは、「流儀を大切にして茶の心を棄てた」ということに私には見えます。
流儀の茶というのは、流派の中ではとても重要であり、流派の看板を背負っている以上、下手なことはできないのが普通。しかし、そんな意識を持っている人はほとんどいらっしゃらないし、グダグダな道具組み(本来しちゃいけない道具組み)をする人なんでゴマンと居ます。
私だって前に「木地に色絵水指共蓋」をやっちゃいましたしね(苦笑)
大事なのは、禅であることや、自流であることではなく「心眼を持つこと」です。
「八風に冒されぬを賢人と言う」という言葉がありますが、紛動されることなく(ふらふらと迷ってしまうことなく)、ひたすらに道を進むことが肝腎です。
仏法に無駄は無し。
無駄と思えるものも、あとから見れば大事なことに気づく近道だったりします。
習心帰大道。
習う心さえあれば、必ず大道(正しい道)に戻ります。
まずは紛動されない自分作りですかね^^